2023年8月2日水曜日

 薔薇(ばら)の花は美しいが棘(とげ)がある。いかにも残念そうに人はそう言います。とげというものは本当に小さなものでありながら、刺すような強い痛みを引き起こします。これさえなかったらどんなに良いだろう、とあの大使徒パウロでさえも、それを嘆きました。

 コリント人への手紙第二127節でパウロはこう語りました。「その啓示があまりにも素晴らしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです

 パウロといえばペテロと並んで、キリスト・イエスの弟子の双璧であり、多くの神のわざを取り次ぎました。これを否定する人はいないでしょう。彼は、神に仕え、第三の天にまで引き上げられ、天の御国について人々が知り得ないような奥義まで知らされていた器であったのです。そのパウロに、神が置かれたのが肉体のとげでした。よほどつらかったのでしょう。パウロは、これを私から去らせてくださいと三度も主に願いました。しかし、神さまは首を縦に振らなかったのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。こうおっしゃいました。

 私たちは弱いのです。いとも簡単にサタンの言葉に乗せられて、高ぶってしまうのです。用いられるうちに次第に神さまが見えなくなってしまい、神さまのご栄光の前に立ちはだかり、挙句の果てには自分を偉大な者だとうぬぼれて肉を誇り始めます。こうならないように、神はパウロに肉体のとげを許されたのだというのです。

 確かに痛いけれど、とげは私に弱さを教えてくれます。自分が肉に過ぎぬ者だということを思い起こさせてくれます。ですから常に神のみ顔を仰ぎ、神のことばを聞くことができます。これこそが、神が与えてくださった祝福なのです。神の下さるものは人の物差しでは測れません。人の弱さは世では歓迎されないものですが、神にあってそれはどれ程の恵みであることでしょう。

 というのも、神の力は弱さのうちに完全に現れるからです。ゼカリヤ書46節に次のように書かれています。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というもので、権力というのは集団の力を、能力というのは個人の力を言います。そのどちらでもなく、神によるのだということをここで語られています。何かを作るのには力が要ります。しかし、神はそれを力ではなくご自身の霊によってなされるということを明らかにしておられます。それでは、どのようにしてなされるのでしょう。

 それが、弱さなのです。弱さは、神の御力の通り道です。神が業をなされるには、私たちの弱さが必要なのです。ついにそれを悟ったパウロは「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(9節)と告白する者となりました。そして、10節では「私が弱い時にこそ、私は強いからです」とさえ語っています。

 エリート街道まっしぐらで来たパウロは、そのすべてを捨てました。キリストのうちにあるものの素晴らしさを知ったからです。神さまは、あなたの能力を必要とされているのではありません。能力のある人なんてごまんといるでしょうし、そもそもその能力も、もとはといえば神が下さったものではありませんか。

 そこにあるのは愛です。受ける一方の神の愛です。ただ、あなたを愛しているから、神はあなたを通してご自身を現してくださるのです。必要とされているのは、皆さん自身なのです。皆さんの力や能力ではありません。弱さを覚えますか? とげに苦しんでいますか? それでいいのです。神はありのままのあなたを愛しておられます。やがては、弱さがあなたを祝福していることを悟る時が来るでしょう。すべてのことを感謝しましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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