2023年8月9日水曜日

羊の門

  ヨハネの福音書10章で、イエスさまはご自分のことを羊の門だと語られました。「わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(10711節)

 そのことばの通り、今から2000年前、イエスさまは私たちの罪を負って、十字架でいのちを捨てられました。そして三日目によみがえり、私たち人間の贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。罪の奴隷であり、やがては滅びるしかない私たちを神はあわれまれ、その愛ゆえに神はひとり子イエスを、救い主として私たちに下さいました。

 私は、他の宗教を経て、18歳の時にこのキリストの福音を信じ救われました。キリスト教はただイエス・キリストを救い主として信じる、それだけで、救われるのです。それに比べてキリスト教の前に来た宗教は、イエスさまのおっしゃる通り、まさに盗人であり強盗でした。何かにつけてお金が絡みました。母とともに入信したのですが1人につき何万円もの供養料を払い、偶像の前に毎日水を上げ、題目を唱え勤行を積むように言われました。まるで宗教の奴隷でした。供養料も供養すべき人も増やされる一方でどんどんお金がかかりました。しかも、そこまでしても救いが約束されるわけでもないのです。今から思うとこれは信心につけこんだビジネスです。好き放題食い物にされたように思います。その時私は16歳でしたが、これからはどんな宗教にも決して心を開くまいと固く誓いました。今考えてみると私は主の羊であったので、もとから彼らの言う宗教とは相いれなかったのだと思います。

 聖書のことば通り、次に来てくださったのが、イエスさまでした。「羊のためにいのちを捨てます」と語られたお方です。イエスを信じるということは、イエスという門をくぐるということです。主イエスの門をくぐると私たちは牧草を見つけます。憩いの中で豊かに養われ、慰めを受け、いやしを受けます。そしてそればかりか、神は、イエスを通して永遠のいのちまでも与えてくださるのです。

 イエスさまは救いに入る唯一の門です。この門を通して私たちは天の祝福にあずかります。私たちは、世の子から神の子となるのです。また、羊は羊飼いの声を知っています。興味深いことに羊は何でも真っすぐに進む習性があります。メーメー言いながら集団で動きますが、羊飼いのつえをちゃんと捉えていて、つえのある所どこまでもついて行くのです。私たちはその羊です。

 世には、世の宗教が百花繚(りょう)乱、至る所に咲き乱れているので、心をそれに向ける人は少なくありません。人を喜ばせることを第一とし、楽しいばかりの宗教もあります。中には、宗教としてのキリスト教は、おとなしくて力がない、そんな見方をする人もいました。しかしそれは神もその御力も知らないのです。

 聖書にはこう書かれています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイの福音書71314節)

 狭き門とは、門の幅が狭いという意味ではありません。入るために熾烈(しれつ)な競争があるわけでもありません。あまりも身近な所にあり、人の目を引くようなこともないありふれた門なので、多くの人が素通りするのです。しかし、ここにこそ救いがあるのです。私たちはこの狭き門から入りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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