2022年4月7日木曜日

律法の縛りと神の恵み

 同じことでも見方が違えば、こうも違うかというような体験をしたことがありますか。ある時私は、カトリックのシスターの書いた詩集を見ていました。すると、こんな一節が目に留まりました。「許せないという苦しみは、許したいという心のあらわれなのです」そこにはこのように書いてありました。

 しばらくその一文に釘付けになりました。そして、ふーっと気持ちが楽になりました。許せないという思いはやはりそれなりのことがあった訳で、受けた心の傷が癒えない中で相手を許すことは相当困難です。中々許せなくて、私は、いつも苦々しさと敗北感を抱いていました。

 しかし、その一文は違いました。人の言葉ですが本質を突きました。許せない私を糾弾するのではなく、許したいと願っている私をくみ取ってくれました。神さまは人の見るようには人を見ません。許せないという苦しみは、許そうとしている心からきているのだと、神さまは教えてくださったように思え、救われた思いがしました。

 神さまは私たちを慈しんでくださっています。許せていないという事実一点を責め立ててくるのはむしろサタンで、神は、前述の通り、許そうとする私たちの心のほうを汲み上げてくださいます。神さまの物の見方は常に私たちの心に寄り添うものであり、そこにあるのは恵みです。神さまは決して律法で裁くことはなさいません。しかし、サタンは律法で私たちを縛り、罪を攻め立ててくるのです。

 私たちは人間ですから、信仰にもアップダウンがあります。調子のよい日には堂々と教会に足を踏み入れますが、負い目を感じる日は、片隅にこっそり座ります。これは神が変わった訳でなく私たちが変わったのです。へブル書138節には「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と書かれています。ですから、救われた当初の神との近しい交わりを思い起こしてください。それは今も一つも変わっていないのです。

 神さまは、あなたを愛しておられ、あなたをご自身のもとに帰らせようと働いておられます。御子をさえ惜しまずに下さったお方は、すべてを下さったのです。ですから、律法には用心しましょう。縛るもの、責め立てるものは神から来たものではありません。それは敵から来たものなのです。律法は死をもたらし、恵みは人をまことの命へと向かわせます。許そうとしているから、許せない心に苦しむのです。神はあなたの心を御存知です。イエス・キリストを信じてみませんか。

MIKOE NEWSから転載」 2022年4月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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