2020年12月2日水曜日

棘(とげ)

 キリスト・イエスの使徒パウロは、神のために誰よりも多く働きました。そしてまた、誰よりも多くの試練を体験しました。聖書のコリント人への手紙第二1112章には、その困難の数々が記録されています。

 読んで印象深かったのは、パウロの独白です。ガマリエル門下のパリサイ人であるパウロには誇れるものがたくさんあります。およそ世が欲しいとするもののすべてを持っている人物です。これらパウロの持っているものは、世から見れば大いに誇れる「強さ」であったに違いありません。にもかかわらずパウロは「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(125節)と吐露してやみません。

 何があったのでしょうか。それは、彼の内に棘(とげ)が、あったのです。同7節にはこのように書かれています。「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に1つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」。

 この肉体の棘(とげ)が何であるかは、昔からよく議論されるところで、てんかん、マラリヤ、眼病などの病気が挙げられています。そして、棘(とげ)がパウロに許されるのは、パウロを高慢にさせないために、サタンの働きをある程度許すという神さまのお心によるものだと言います。パウロはこれを私から去らせてくださるようにと3度も主に願いました。

 しかし、神はそれをお許しにならなかったのです。そして、言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(9節)。

 私たち人間は「強さ」を力とします。でも、神の力は人の「弱さ」を土台として完全に現わされます。棘(とげ)とは、弱さです。痛み、神の助けを仰ぎ見ずにはいられない、その弱さが私たちを神につなげています。神は確かに「強さ」ではなく、「弱さ」の内に働かれます。パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言うに至りました。

 私たちは高慢になりやすく肉を誇る者です。ですから神は私たちにあえて棘(とげ)を許されることがあるのです。10節でパウロはこう言いました。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」。

 世の忌み嫌う「弱さ」は、キリスト・イエスにあって、私たちの「強さ」になるのです。こういう訳で、私たちもまた弱さを誇りましょう。弱さを通して働く神のわざこそ私たちの取り分です。 

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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