2020年10月10日土曜日

 罪の赦し

 マタイの福音書18章は、赦しのことを取り上げていることでよく知られています。

  いつものことですが、主イエスの弟子のペテロは、イエスさまに良い所を見せたいと思ったのでしょう。こういう質問をイエスにしました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」7度というのはペテロにとってかなり譲歩したつもりの回数です。

 イエスさまは、それに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」とおっしゃいました。勿論これは490回赦しなさい、という意味ではなく、徹底して、幾度であっても、赦しなさいと語っておられるのです。

 赦しはキリスト教の根幹をなす教えです。この赦しの教えがどこから始まったかというとやはり、イエスさまの十字架上でのおことばからでしょう。十字架にかけられ罪人の一人として数えられたイエスさまは、み苦しみの中にあっても、私たちをとりなしておられました。34節では「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、十字架の上から祈られています。責めることもなく、裁くこともなく、私たちを赦し、愛を示されました。

 人を赦すということはとても難しいことだと思います。個人的な思いですが、赦しを思うと、いつもドミノ倒しが脳裏に浮かんできます。「連鎖」ということを考えるのです。ドミノでは誰かが第一番目のドミノを倒すなら、あとはもう誰も止められないほどの早さで事は一気に展開します。

 赦しというものもまた、ドミノ倒しのようだと私は思います。全体を動かす最初の1手がありさえすれば、あとは一気に進んで行きます。そして最初の1手となったのが、イエスさまの赦しです。十字架の愛です。イエスさまの十字架の死は、私たちを赦すために支払われた尊い贖いの代価です。

 赦された人は、赦す人になることができます。イエスさまが私たちを赦してくださったからこそ、私たちもまたキリストの愛によって、赦す力を頂くことができるのです。

   マタイによる福音書6章にはこう書かれています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(1415節)

 人は、人を救う力を持ち合わせていません。でも、イエスさまは神の御子ですから、それを持っておられます。そして、イエスさまが十字架にかかって死なれたのは、ただ一度、ご自身の身を代価として、私たちの罪を永遠に贖うためであったのです。イエスさまは、死なれて後3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。

 こういう訳で、イエスさまがあなたのすべての罪を赦されたのですから、私たちもまた、互いに罪を赦し合いましょう。それでは、まずあなたから始めましょう。主が赦されたのですから、私たちもまた、私たちに負い目のある人を赦しましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

0 件のコメント:

コメントを投稿