2020年10月18日日曜日

 愛のかたち

 シェークスピアは、『ハムレット』の中で「弱きもの,汝の名は女なり」という一文を書きました。

 うら若き頃、弱くて消え入りそうな手弱女(たおやめ)もその後405060歳と年を重ねるうちに、とても手弱女と呼べるような者ではなくなってきます。太ってしまったり、恥らいを失ったり、うわさ話が大好きだったり、かつての手弱女は年月とともに、続々と「手強いおばさん」に仕上がっていきます。

   日本では、結婚したら、かかあ天下になるのが「家」の安泰だと思われている節があります。そんな文化だからか、おばさん達の中には、自分の連れ合いのことをうちの「宿六」(やどろく)と呼んでみたり「ごくつぶし」と言ってみたりします。ちなみに「宿六」の六というのは、「ろくでなし」の「6」で、家を宿代わりに寝に帰ってくるだけのろくでなし、というのが、その意味するところです。「ごくつぶし」は、飯を食うのだけは一人前だが、ほかにはこれといった能力が無い、といった意味です。これらは日本語特有の親しみをこめた言い方といえなくはありませんが、「家」の縛りが強すぎて個々人としての夫婦の姿や成長を見ることができません。

 聖書を土台とした結婚観では、結婚は、頭であるキリストとみからだなる教会を指す奥義で、「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」というものです。神が引き合わせた一人の男と一人の女は、「もはやふたりではなくひとりなのです」と宣言され、夫婦になるのです。 

 エペソ人への手紙5章は結婚に関して書かれている箇所として有名です。結婚生活においては、夫と妻それぞれに求められている働きは異なります。結婚が目指すところは、夫と妻2人が同じになっていくことではなく、神を真ん中にして異なる2人が互いに結ばれ、一つ心同じ体となって助け合うようになることです。ですから聖書は妻に対しては、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)と「従う」ことを語り、夫に対しては「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)と「愛する」ことが求められているのです。 

 神は愛であり、愛は神です。従う愛があり、愛する愛があります。いずれも聖書で語られている神の大きな愛の中の一側面です。一口に愛といっても神の愛と人の愛は違いますし、求められるところもまた両性において異なります。男の助けとして創造られてきた女はそれ故に男以上に優秀なところがあります。妻は夫に一番近いので、夫の弱さ、夫の足りなさが、よく見えるところにいます。しかし、その時、夫をさげすむ者は、そこにある祝福を受けることができません。しかし、幻を共有して助け従ってゆくなら大いに祝福されます。それは、女性の側の選びに任されるところが大きいのではないかと思います。

 こういう訳であなたの宿六を敬い、宿六を感謝しましょう。彼はあなたを愛する愛を既に神さまからもらっています。ありがとうと言ってみませんか。彼はあなたを「私の骨からの骨」と呼び、無限に愛を注いでくれるに違いありません。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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