2020年3月4日水曜日


リバイバル

 リバイバル、というと何を思いますか。リバイバルって何でしょう。私の属する教会は、リバイバルに召しを持つ教会で、ハバクク書から「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(2章3節)ということばを頂き、三十数年来「それ」を待ち望んでいます。
 また、ヨエル書2章23節には「主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださる」という約束が書かれています。
 雨とは、聖霊の注ぎかけであって、使徒行伝時代に、聖霊の激しい働きを受け「初めの雨」と呼ばれるリバイバルのわざが起こりました。そして、世の終わりに再び、今度は「後の雨」といわれる聖霊の激しい働き、終末の大リバイバルが起こることが約束されています。私たちはそれを待ち望んでいるのです。
 リバイバルという語を定義づけると、「一度廃(すた)れたものが再評価されること」を言います。リバイバルという言葉は今も映画や音楽、ファッションなどの分野でよく用いられている言葉ですが、もともと日本にはリバイバルという語はありませんでした。英語のリバイバルという語をそのままカタカナに持ってきたものであって、18世紀のアメリカで起こった信仰復興の働きを言います。一度廃れた信仰が刷新されるという意味ですが、リバイバルの日にその実現を見るでしょう。
 マタイの福音書1220節で、イエスさまはご自分のことを「いたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」と語られました。このことば通り、たとえ私たちが弱くても、イエスさまにより頼むなら、弱ささえも用いて神のわざは進みます。リバイバルは既に始まっています。神は私たちを用いてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月8日号(第1084号)より転載—

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