2020年3月11日水曜日

信 仰   


 クリスチャンになって最初に学んだのは「信仰」でした。神さまは、私たちが信仰に富むものであることを望んでおられ、信仰を立て上げてくださいます。
 へブル人への手紙、特に11章は、神の器(奉仕者)がいかに信仰を用いたかが書かれています。その中で6節にはこのように書かれています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」
 これは信仰を運用するにあたっての二つの前提条件を示しています。何を信じるのかということですが、それは神がおられることと、求めるなら報いてくださる方であることを信じるのです。
 また、ローマ人への手紙4章18節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という一文があります。これは、直接にはアブラハムにイサクが与えられると神が約束された時のことを言っています。100歳の老人からイサクが出るでしょうか。そんなこと信じられますか。しかし、アブラハムは信じたのです。アブラハムは約束を与えてくださった神を信じました。ここでも、信仰が取り上げられています。信じるとは、望み得ないそのただ中で望みを抱くことなのです。ここに信仰が働きます。望み得ないからと言って諦めてしまったら信仰は死んだも同然、いやもう死んでいます。信仰による神の大きなみ働きを期待することはできません。
 信じ続けるには忍耐が必要です。ヤコブの手紙には「信仰が試されると忍耐が生じる」(1章3節)と書かれています。約束の成就に至るまで私たちはその信仰を試されます。しかし忍耐を完全に働かせることによって私たちは必ず約束のものを受けます。神を信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月15日号(第1085号)より転載—

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