2018年11月14日水曜日

ちりあくたです

 神さまは、ご自身の働きをなす器として、無学な荒くれの漁師からセレブに至るまで、幅広くお召しになりました。そして皆、神に出会うと変えられました。劇的に変えられた2人のセレブを紹介しましょう。
 それは、モーセとパウロです。2人は人がうらやむもの全てを持っていました。モーセは、へブル人でしたが、王の娘の息子となり、エジプトの帝王学を修めました。パウロは、出自に恵まれ、生まれながらのローマ市民でした。最高学府であるガマリエル門下で研さんを積み、律法による義についてなら非難されるところのないパリサイ人でした。
 ところがパウロは、ピリピ人への手紙3章で驚くようなことを語ります。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」(7節)「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくただと思っています」(8節)というのです。
 モーセにおいても同様です。ヘブル人への手紙11章には次のように書かれています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(2425節)「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(26節)
 パウロもモーセも、世にあっては最高のものを得ていました。しかし、それをちりあくただと言い切ったのです。彼らは、この世が決して与えることできない、イエス・キリストの内にある、天の報いとその素晴らしさを見ていました。これこそ、神さまが私たちに与えてくださるものです。(イスラエル北野)

み声新聞2018年11月18日号(第1016号)より転載—

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