2012年3月11日日曜日

二 心

 天の父なる神さまは、私たちがどのように信仰を用いて生きているのかを、興味深くご覧になっておられます。
 イエス・キリストを救い主と信じたその時から神さまは私にとって霊の父となり、御子イエスさまの御名によって祈るという特権を下さいました。
 私は新生したばかりの幼い信仰者でしたが、教会に通うための自転車を下さい、と祈ることにしました。事細かく祈り、教会の仲間に祈っていること を告げました。
 しかし、ここからがいけなかったのです。神に祈り求めると言いながらも私は二心で、一方で主に求めながら、他方で友人のうちから自転車を下さる 方を探しました。そして、祈っていたものとは違いますが、「自転車をもらえました」と証しするつもりでいました。
 ところが、その自転車は私の所へ来る前日に、何と盗難に遭いました。右も左も分からない者でしたが、その事を聞いた瞬間、神の手だ!とはっきり と分かりました。即座に二心を悔い改め、主を恐れました。
 すると、そのような事を何も知らない知人と電話で話していたところ、突然「自転車は要らないか」と話が持ち上がりました。主を恐れました。祈った通りの自転車がそこにはありました。
 神への祈りはどんなものであっても必ず届いています。それ故、天のお父さまは、もっと信仰を用いて、もっとご自身により頼みなさい、信じなさ いと私たちに求めておられるのです。
 マルコの福音書に「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(11章24節)と書いてありま す。このことばを信じ、神を信じ、神のご栄光を見ていこうではありませんか。
(イスラエル北野)
み声新聞2012年3月18日号(第667号)より転載—



2012年3月4日日曜日

リバイバル

2月16日から18日まで、主の十字架クリスチャンセンター主催の白馬スネルゴイキャンプに出席しました。会場には300人を超える人たちが集 まり、そこで私たちは、受けたと信じる信仰(マルコの福音書11章24節)によって、リバイバルが起こったことを宣言し、また、それを告白し、感 謝と賛美の声を上げ、主を拝し、踊りながら主をほめたたえました。日本を覆う厚い霊の壁は打ち破られました。
キャンプから帰ってきてもなお、その素晴らしい臨在と喜びは、消えることもあせることもなく、繰り返し聖霊さまの温かな注ぎかけを受けていま す。
リバイバルというのは、そもそも「復興」を意味する言葉です。神に対して無関心なたましいがリバイブ(復興)され、新しくされます。また、神を 愛する故に熱心に清められることを追い求めるようになり、父なる神を愛する思いは、いよいよ深く増し加わります。
また、リバイバルは「後の雨」とも呼ばれ、たましいの大収穫の時でもあります。聖霊の大いなる働きによって、いやしや奇跡が起こり、それを見た 大勢の方々が救われていきます。多くの人が見たいと願っていた大リバイバルの約束の成就を、これから私たちは見ていき、担っていくことになりま す。これは、神の約束であり、ただ神の恵みの御手が成し遂げてくださるでしょう。
ヨエル書には次のように書かれています。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ」(2章23節)
時はやって来ました。皆さん、用意はよろしいでしょうか?
(イスラエル北野)


み声新聞2012年3月11日号(第666号)より転載—



2012年2月22日水曜日

子育てとその成功

私には、21歳になる娘がいます。社会人としてアパレル(衣服)関係で働いています。いろいろな所を通ってきて、娘は、イエスさまが自分の力と なってくださっていることを知っています。
彼女は私たちの初めての子です。私の期待もまた大きく、人並みのことをさせてやりたいという思いから、受験の折には、ない袖を振って進学スクー ルへ行かせました。
順調に、娘は志望校に入学しました。これでこの子は大丈夫と一息ついたのですが、束の間。娘は友人関係のもつれから高校に通えなくなりました。 何とか、通信制の高校に転校することができましたが、今まで私がなした苦労と投資は何だったのか、と私は考えてしまいました。
そもそも、親の苦労といっても、それは私が自分勝手に抱えたものでした。私は子に聞くことも神に聞くこともなく、世が提供する出来合いの成功を 娘に押し付けようとしていたにすぎなかったようです。ようやく私は、自分が神さまと違う方向を向いていたことに気付きました。
世の人と同じように歩むことは、ある面、楽な道です。同じようにやっていけば、それで済むからです。しかし、最善の人生は一人一人違います。神さまは一人一人に計画を持っておられ、そしてそれが最善なのです。もし人生の成功を求めるなら、それは神の計画を聞くことから始めるのが最善なのです。
娘は今、喜びをもってキリストの勝利の内を歩んでいます。職場でのさまざまな出来事の中、真に神さまと出会い、何度も神さまの助けを体験し、喜んでいます。本当の成功、それは人の目には隠されています。神さまについていきたいという人だけが、それを知っています。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年3月4日号(第665号)より転載—

信仰の冒険

私は1987年の12月にイエス・キリストを信じ、新しくされました。クリスチャンとして生きることがあまりにも素晴らしいので、献身しまし た。両親は怒り、私は勘当されました。
若かったということでしょうか、反対されても、何があっても生ける神を知りたい、その思いが強く、心中わびつつ親不孝をさせていただきました。
取りあえず、神さまのことを優先させようと全ての神学校の科目を取りました。すると空いている時間は、月曜日だけになりました。経済はどのように満たされるのでしょうか。当時、家賃の半分をささげてくださる人はいましたが、あとの必要は、まさに神頼みでした。私は、自分が、水の上に立って歩きだしたペテロのよう に思えました。歩き始めたのはよいが、波に目をそらせたペテロは沈みかけました。私の献身も溺れたらどうしようと、不安になりました。しかし、聖書をよく読んでみると「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかん」だと書いてあります。溺れたとしてもイエスさまの助けが入る。心は定まりました。
さらなる必要もまた神さまだけにより頼みました。こちらから探すことはせず、向こうから話が来るように祈りました。そして、正直に、「肉体労働をする力はありません。持てるものといったら教員免状だけです。しかも働ける日は月曜だけです。時給は2000円以上必要です」、そう申し上げま した。
それから数日たって、ついに一本の電話が鳴りました。予備校教師の依頼でした。しかも募集していた方はクリスチャンで、こちらの証しを聞くと、面接なしで即採用となり、2300円の時給を付けてくださいました。
ハレルヤ。神は私たちの信頼の的です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月26日号(第664号)より転載—

2012年2月12日日曜日

死を目前にして

先日、父の友人が他界しました。亡くなる前に、牧師である母がその方の所へ祈りに行きました。冷静な人ですが、母の顔を見て、泣いて、顔中涙で いっぱいになったと聞きました。もはや、しゃべることができず、何を見たか、何がつらいか、言えないまま死を迎えました。
同じように、死ぬ間際に、泣いて死んでいった人の話を知っています。元F1レーサーで冒険家の片山右京さんの友人です。彼は右京さんとともに冬 山登山に出掛けて遭難し、いざ死が臨んだ時に、ただただ泣いて、そして死を迎えたと片山さんは証言していました。
彼らは相共にどうして泣くのか、それは死に直面したからです。
私の牧師であるA牧師は、病気で心停止寸前のところまで行った人です。今まさに死ぬのか、と思った時、A牧師が向かい合ったのは「妥協なき絶 望」であったといいます。自分は神の前に果たすべきことを何も行っていない、なのに死のうとしている、それはまさに「妥協なき絶望」だったという のです。
私たち人間には等しく死が訪れます。誰もがその事を知っています。しかし、皆、死を忘れようとして世の楽しみを求めます。そしていざ、死の前に 独りで立つ時、初めて分かるのです。死に対する備えのないことを。備えとはイエス・キリストを信じることです。イザヤ書55章6節には、このように書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」。これは確かなことばです。今は、福音の語られている時代です。イエス・キリストを信じる者は天国へ行き、信じなかった者は地獄へ行きます。
あなたもイエスさまを信じ、救いを受け取りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月19日号(第663号)より転載—

2012年2月5日日曜日

聖なるということ

聖なるという称号は、神こそ受けるにふさわしい言葉です。
イザヤ書6章で、イザヤは御父の栄光を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムが高き所に立って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その 栄光は全地に満つ」と互いに呼び交わしていました。
それを見てイザヤは、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから」と語りました。イザヤは、天の光景を見たのです。それは聖なるものでした。
歴代誌第一13章にウザという人物が登場します。ウザは主の聖なる神の箱を運ぶ車の御者でしたが、キドンの打ち場に来た時、牛がそれをひっくり 返しそうになったので、手を伸ばして、箱を押さえました。すると、たちまち主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打ちました。ウザはその場で 神の前に死んだ。そう書かれています。
神の箱は、最も聖なるもので、レビ人、特にケハテ族以外は、運ぶことを許されていませんでした。たとい善から出た行為であっても、領域を越えて 神の神聖を侵すことはしてはならないのです。
神が聖であることは、神は絶対だということでもあります。神聖を侵すものは誰であっても、神の御前で断たれてしまいます。
それ故、神は御子イエス・キリストを送り、その十字架による贖いを成し遂げてくださいました。私たちが神さまに近づく道はこの十字架以外にありません。十字架を通して近づく者を、神さまはご自分の子として受け入れ、多くの恵みで満たしてくださいます。聖なることは力です。神を恐れましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月12日号(第662号)より転載—

2012年1月29日日曜日

多く愛する人、少し愛する人

ルカの福音書7章に、1人の罪深い女の話が取り上げられています。彼女は、イエスさまがパリサイ人の家にいると知って、香油の入った石こうのつぼを持ってやって来ました。そして、泣きながら、御足のそばに立ち、涙で御足を濡らし始め、髪の毛で拭い、御足に口づけして、香油を塗りました。
それを見ていたパリサイ人は、心ひそかにさげすんで、こう思いました。「イエスが預言者ならこの女がどんな女であるか知っておられるはずだ」
もちろん、イエスさまはご存じでした。それで、シモンという弟子に向けてこういう話をしました。「金貸しに、500デナリ、50デナリの借りのある者がいたが、返せなくなったので金貸しは赦してやった。2人のうちどちらが余計に金貸しを愛するようになると思うか」
シモンは「余計に赦してもらったほうだと思います」と答えました。イエスさまは、「あなたの判断は当たっています」と語られました。
そして、こう言われたのです。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは、彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」。イエスさまは、女に「あなたの罪は赦されています」と語ってくださいました。全て、多く赦される者は、より多く神を愛するようになります。多く赦される者とは、より多く自分の罪を知っている人です。だからすべての人は、神のみ前では「多く赦された者」であることを知るべきなのです。
イエス・キリストは、私たちを赦すために来られたお方です。自分の罪をより知るなら、より神を愛する者となるのです。より多く神を愛し、より多く神の恵みを受けていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月5日号(第661号)より転載—