2025年6月18日水曜日

 今が信じる時です

 先週613日に衝撃的なニュースが飛び込んできました。イスラエルがイランを空爆したというニュースです。イスラエルはイランの核開発施設数カ所を含む軍事施設など数十カ所を空爆、破壊したとのことでした。ロシアとウクライナの戦闘から中東でもイスラエルとハマスの間で軍事衝突が起こり、この中で、多くの方々が、イスラエルとイランの全面的戦闘を危惧していましたが、ついに不安が現実的なものとなってしまったようです。アメリカのトランプ大統領も、サミットを早退するなど前代未聞の行動をとり、その関心の異常な高さを知ることができます。

 かつて1970年代、イランとイラクが戦争状態になった時(いわゆるイ・イ戦争)、当時中東には多くの国、特にヨーロッパから石油開発のためにさまざまな企業が多大な出資をしてプラントに参加し、日本からも大手総合商社が参加していました。

 ところが、この二つの国の間で戦争が起きた時、日本以外の多くの国々が自分の国に戻っていきました。それは外交や安全保障の現実的な判断からですが、彼らは聖書を知っていましたので、中東で何か起こったら、すぐに終わらないばかりか、大変なことになると思っていたからという背景がもしかしたらあるのかもしれません。

 日本はあまり聖書を知りません。また両国ともあまり物資のない国でしたから、戦争はすぐにやむものと思っていました。そして戦争が終わった時には、最後まで留まったわれわれにかなり有利な結果となると思っていました。

 ところがこの戦争はそれぞれの国のバックに当時のソ連、アメリカが付き、イラン、イラクに対して膨大な軍事支援をし、別名米ソ代理戦争と言われるほどの戦争となりました。当然その被害も大きく、戦争は約8年続きましたが、終わった頃には、留まっていた日本の企業はプラント存続どころか、企業そのものの存続に影響が出るほどの事態となっていたそうです。

 日本から見れば中東はかなり遠くの国のように見えますが、この中東の出来事は常に世界全体に大きな影響を与えてくるのです。聖書から見れば、中東、特にイスラエルがその中心であり、イスラエルに関わる出来事は、他の中東諸国に勝って大きな影響力を持ちます。

 今回、このイスラエルとイランが本格的に戦闘状態となったことで、多くの国々が慌てるのも当然といえましょう。聖書、特に旧約聖書の預言書であるダニエル書9章を見ると、イスラエルを中心とした中東の混乱を終わらせるためか、やがて世界的な政治リーダーが中東を中心とした恒久的な平和条約を締結することが書かれています。

 もちろん、預言書にはさまざまな解釈があることは良く知っています。この恒久的中東和平が締結されてから7年で今の世界が終わることが書かれています。そして次の世が来ます。この次の世に入ることができるのは、イエス・キリストを自分の贖(あがない)い主と信じた者だけです。

 今回のイスラエルとイランの戦争も、間違いなくこの恒久的中東和平が近づいていることのしるしです。

 時はそれほど多く残されていません。イエス・キリストを信じるのはまさに今のこの時であると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月11日水曜日

 ラザロの復活

 ヨハネの福音書11章のことです。ベタニヤのマリヤの兄弟ラザロが、病気にかかっていました。そこで、姉妹たちは、イエスの所に使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 イエスはこれを聞いて、言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」。イエスさまは、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。それで、ラザロが病んでいることを聞かれても、そのおられた所になお二日とどまられました。そして、その後「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われました。イエスさまは、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」とおっしゃいました。

 お弟子たちは、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いました。それに対して、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」。主はご自分がなされることを知っておられたのです。ところが、お弟子のトマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と、とんちんかんな事を言います。彼もイエスを信じてなかったのです。

 イエスが着いた時、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていました。当時のユダヤ人の言い伝えの中で、死んで3日以内ならまだ死者の霊が黄泉(よみ)には行っておらず、生き返る可能性があると考えていたようです。しかし、4日たっていたら、もう生き返ることは絶対に無い、と考えられていました。ですから、ラザロの復活はメシヤでなければできない奇跡でした。このような状況の中、マルタは真っ先にイエスを迎えに行きました。そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになるものは何でも、神はあなたにお与えになります。

 イエスは言われます。「あなたの兄弟はよみがえります。」。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。

 すると、イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

 マルタは、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と立派な信仰告白をしました。

 多くの人が泣いていました。また、イエスも涙を流されました。そして、死に対する憤りをもって、墓に来られました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました。

 「その石を取りのけなさい。」とイエスは言われました。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と返事をします。イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と彼女に言われました。そこで、彼らは石を取りのけました。

 イエスは目を上げて言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。

 そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布に巻かれたままで出てきました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」と主イエスは言われました。

 ラザロは復活したのです。これを見た多くのユダヤ人がイエスを信じました。

 死は、普通私たちにとって絶望です。しかし、イエスはこの場所で、それに打ち勝つ力をお持ちであることを示されたのです。イエスさまご自身も、十字架で死んだ後、3日目によみがえりを果たされました。イエスさま以降、死は、もはや人類を支配しないのです。死に打ち勝つまことのいのちが、イエスのうちにあるのです。そのことを示すために、聖書のこの箇所が書かれました。

 イエスを信じる者は、死んでも生き、生きていてイエスを信じる者は決して死ぬことがありません。これが、イエスを通して神が約束されていることなのです。このことを、あなたも信じましょう。イエスさまは、神です。この方のうちには永遠のいのちがあるのです。私たちは、もはや死を恐れる必要はないのです。

 それゆえ、イエス・キリストをあなたの個人的な救い主として、心にお迎えいたしましょう。イエスは、あなたのすべての罪を赦し、あなたに定められている死からいのちへとあなたを移し、永遠のいのちを与えてくださいました。それが確かであることを示すため、イエスは死んで4日もたち、どう考えても望みのないラザロをよみがえらされたのです。コリント人への手紙第一1555節に「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と書かれている通りです。

 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。そして、この神への信仰は決して失望に終わることがありません。死に打ち勝ったイエス・キリストを信じ、死に打ち勝つ勝利を得ましょう。

 すべて病は神の栄光が現されるためのものです。あなたも必ず神の栄光を見ます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月4日水曜日

ベタニヤのマリヤ

 エルサレムに程近いベタニヤという村に、イエスが愛されている二人の姉妹がいました。姉の名はマルタ。妹は、マリヤと言います。同じ姉妹であるにもかかわらず、ふたりは正反対な性格でした。気配りにたけている出来の良い姉とマイペースな末の妹、といったところでしょうか。

 ルカの福音書10章には、この二人の様子が詳しく描かれています(38節~42節)。イエスさまが旅を続けておられる時、ベタニヤに入ったところ、マルタは喜んでイエスさまを家にお迎えしました。マルタは、これもして差し上げたい、あれもして、それから、といろいろともてなしのために気が落ち着かず、実際、猫の手も借りたいほどの状況でした。ところが、妹といえば、イエスさまの足もとに座ったまま動かず、じっとイエスさまの語ることに聞き入っているばかりです。この忙しい時に一体お前は何をやっているの!、とさぞじれたことでしょう。

 それで、憤ったマルタはついイエスさまにマリヤを非難してこう言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

 それに対するイエスさまの答えはこうでした。「マルタ。マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。主は、マリヤの在り方を、マルタの言い分よりも正しいとされたのです。

 それから月日がたち、過越の祭りの6日前に、イエスさまはまたベタニヤのマルタとマリヤの家に来てくださいました。イエスさまが死人の中からよみがえらされた彼らの兄弟ラザロとマルタ、そしてマリヤがいました。人々はイエスのためにそこに晩餐(ばんさん)を用意しました(ヨハネの福音書12111節参照)。マルタは熱心に給仕していました。

 晩餐のたけなわ、皆の前でマリヤは驚く行為に出ます。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテ・ユダはこれに憤慨して言います。「なぜ、この香油を三百デナリ(およそ人の年収に当たる)に売って、貧しい人に施さなかったのか。」

 しかし、イエスさまはこう言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。

 マタイの福音書では、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(2613節)とイエスさまは語っておられます。

 ナルド油というのは、乙女が結婚式に備えて少しずつためておく香油だそうです。それを、すべてイエスさまに注いだマリヤの気持ちを主は受け止めてくださっていました。マリヤは愛するイエスさまに対して、自分にできる限りのことを行ったのです。マリヤは主が十字架でお亡くなりになることが近いことを、知っていたのです。なぜなら、そのことをイエスさまが既に話しておられたからです。御足のもとで、主のことばを聞き入っていたマリヤだからこそ、イエスさまのおことばによって、主の時がそこまで迫っていることを知り得たのです。

 対するお弟子たちは、イエスが何度も、人の子は十字架にかけられ殺されること、そして、3日目によみがえることを話されたのにもかかわらず、それを理解し悟ることができませんでした。イエスさまに死なれては困る、とまだ自立できていない心の状態があったのかもしれません。また、ユダヤ人の王イエスという自分たちの望むメシア観を捨てきれず、主が亡くなることを受け入れられなかったのかも知れません。いずれにせよ、主イエスのことばはお弟子たちの心に入って行きませんでした。ですから、ゲッセマネの祈りでも眠りこけてしまい、目を覚ましていなさいという主のことばにも聞けなかったのです。そして、ふたを開けると弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。

 しかし、何の肩書きも立場もない一人の信者にすぎないマリヤが、弟子たちが聞けなかった神のことばをしっかりと聞いていたのです。主の足もとで一心に聞いていたのがマリヤでした。ですから、主が、お亡くなりになることを知って、埋葬の用意をしたのです。

 そればかりではありません。イエスさまが復活することもマリヤは聞いて捉えていました。聖書にはイエスの墓に多くの女たちが向かったことが記されていますが、その中にベタニヤのマリヤの名はありません。イエスさまが、ご自分のご生涯について語ったことをマリヤはじっと聞いて捉えていたのです。そして、それをしっかりと心に留めていました。

 イエスさまは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と語られました。私たちは、この一つを聞けているでしょうか。神のことばに耳を傾けているでしょうか。これこそが、最も大切なことだと、ベタニヤのマリヤを通して主が語っておられると思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/