2023年7月4日火曜日

免罪符

  大学受験を目の前にした17歳の私は、無宗教を自認する私的宗教家でした。ややこしい言い回しですね。多くの日本人がそうであるように、無宗教を自認していながら初詣には神社にお参りに行き、葬儀は仏式で抵抗なく焼香を上げ、結婚式はキリスト教式であげることに何のためらいもないのです。イザヤ・ベンダサンなど多くの批評家はこれを理解することが難しいと、よくこのことを取り上げますが、日本人の宗教観は特殊で特定の宗教を信心している者は稀です。むしろ特定の宗教に入ることはそれに縛られているとして、歓迎されないようにも思われます。

 さて、私が何をしていたのかといえば、それは受験合格のお守りを集めていたのです。神道、仏教はもちろんのこと、JR学(がく)駅の入場券5枚や(ご入学という意味)、高松の動物園の「ナマケモノ」の札なども取り寄せました(怠けても枝から落ちないという意味)。これらを集めて悦に入っていました。本当にそれらが効くと信じていたわけではありません。効けばいいな、くらいの気持ちでした。

 そんな私を見て、ある男性は忠告してくれました。いくつもの神さまに頼ったら、神さま同士がけんかして効かなくなるよ、一つにしておきなさい。しかし、お守りが効くなど実は信じていなかったので、私は聞く耳を持ちませんでした。

 確かに、落ちた大学もありましたから、そういう点では彼の言うことも一理あったかもしれません。しかし、今となれば、少しは霊的なことも分かるようになりましたので、結論から申し上げれば、人が紙に刷ったようなものはしょせんは紙であり、いずれは朽ち果て地のちりとなります。

 しかし、紙で刷ったもので、大もうけしたという話が世界にはあります。「免罪符」です。1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売り出された「贖宥状」(しょくゆうじょう)とも言います。これは、そもそもは、イタリアのサンピエトロ大聖堂の建設費を集める名目で集められたものです。他にも十字軍に服役できない女性や高齢者、病人にこれを買うよう奨励されたという歴史もあります。

 ウィキペディアによると、「贖」は「あがなう」こと、「宥」は「ゆるすこと」を意味し、罪の赦しをお金であがなうということになります。一種の「お札」で、それを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができるとされ、死んだ人のために買えばその人も救われる、とされました。これは教会の莫大な収入になり、教会としてもうまみに酔いしれ、これを手放すことができませんでした。

 しかし、これが聖書的に妥当かどうかは、言うまでもありません。使徒の働き412節には、次のように書かれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」。この方とは、もちろんイエス・キリストです。十字架で血潮を流して私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。彼は、約束のメシヤです。

 私たちは罪人(つみびと)で、赦されなければならない人間です。しかし、その赦しは神から来ないと誰からも来ることはありません。ただ十字架の主、この方イエス・キリストによらないでは、罪の赦しも永遠のいのちもありません。そして、ただ主を信じるだけで、私たちは救いにあずかるのです。

 大切なものは、往々にして目には見えません。免罪符には何の力も約束もありません。信仰とはそもそも一人一人、自分が主と向き合って信じるのです。あなたの信仰がいくら強くても、その信仰は他の人の代わりになることはできません。免罪符には救いはありません。それは人から出たものであって、でっち上げで大ウソなのです。ただイエスの十字架の贖いを信じるだけ、それだけで私たちは、罪の赦しを受け、救いを得るのです。十字架のイエスこそ本物です。イエス・キリストを信じ、真の救いを受けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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