2020年1月1日水曜日

犠牲と恵み

 幼い日、山岳宗教で有名な寺院に行きました。道を歩いていると、急に父に引っ張られたと思ったら、そこにお百度を踏んでいる男性がいました。お百度は強い願掛けで、はだしで、口もきかず、社に向かって100回足を運び、祈願するものです。これに似たものに、チベット仏教の五体投地があります。聖地に来ると、足を使わないで全身を投げ出して、にじるようにして前進します。
 いにしえから宗教と犠牲は密接な関わりがあります。聖書でもバアルの預言者たちが、バアルに答えてもらうために、剣や槍(やり)で血を流すまで体のあちこちに傷をつけて求めたことが記録されています(第1列王記18章参照)。
 何かを犠牲にすることによって神に答えていただくというのは私たちが陥りやすい宗教のあり方で、通常犠牲はどんどんエスカレートして行きます。
 それに対してイエス・キリストは、マタイの福音書12章7節で「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という一文を引用されました。犠牲ではなく、あわれみにより頼むことを語られたのです。いったい人にすぎない者が神の手を動かすことができるでしょうか。そこをイエスさまは言っているのです。
 全ては、神から発しています。神のあわれみを待ち望む心に、神は働いてくださいます。受ける価値のない者への一方的な恵みとして、神はあわれみのうちに臨んでくださるのです。それ故、あわれみを、恵みを期待しましょう。
 私たちは、恵みの時代を生きています。1人として恵みからもれることなく、全ての人を救うため神はあわれみによって私たちを測ってくださいました。その恵みは無条件で与えられます。それ故、あなたもまた、神の救いにあずかることができます。主イエス・キリストを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月5日号(第1075号)より転載—

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