2014年1月6日月曜日


お金持ち
お金の追求というのは誰もが持っている欲望の一つであると思います。ルカの福
音書12章に、ある金持ちの例話が記されています。
 彼の畑が豊作を迎えたとき、彼は「どうしよう。作物を蓄えておく場所がな
い」と思いました。そして、「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっ と大
きいの建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。(中略)たましいよ。これ
から先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べ て、飲んで、
楽しめ」と自分を祝福しました。
 これに対して神は、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去ら
れる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになる のか」
と語られました。
 せっかく蓄えたのに使わずに死ぬなんて愚の骨頂ではありませんか。金持ちの
安心は、守ってくださる神さまにではなく、お金や財産にありました。 お金さ
えあれば困ることがない。何でも通用する、それが彼の哲学でした。確かにそれ
は間違ってはいないでしょう。しかし、そこにはわながありま す。お金を愛す
る人は決してお金に満足しません。もっともっとと求めてきりがないのです。こ
うなればもはやそれはお金の奴隷です。
 詩篇49篇には「恐れるな。人が富を得ても。人は、死ぬとき、何一つ持って行
くことができず。生きている間、自分を祝福できても、自分の先祖の 世代に行
き、彼らは決して光を見ないであろう。人はその栄華の中にあっても、悟りがな
ければ、滅びうせる獣に等しい」(抜粋)と書かれています。 いくら豊かな人
でも、その人のいのちは財産にあるのではありません。神を恐れること、これが
悟りです。               (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年1月12日号(第762号)より転載—

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