2012年8月15日水曜日

屈 折

 ヨハネの福音書5章に、38年もの間、病気でいた人の話が出てきます。当時、エルサレムには、べテスダという池があり、大勢の病人が伏せってい ました。彼もまたその中の一人でした。
 イエスさまは、彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言いました。「よくなりたいか」
 それに対して、彼はこのように述べました。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう ほかの人が先に降りて行くのです」
 これは、弁解のような答えです。良くなりたいに決まっています。でも彼は、イエスさまに「はい。なりたいです」とは言えませんでした。どうして でしょうか。この弁解のような答えにこそ、彼の苦しみの年月を読み取ることができます。
 38年という年月は、人が希望を失うに十分な時間でした。病人には、病人の心の屈折があるのです。時に諦めがあり、憤りもあり、また失望し、孤 独に追いやられます。望みのない病に、もうどうでもいい、どうせ俺なんか、とやけっぱちな思いにもなったでしょう。
 それらを知ってイエスさまは、「よくなりたいか」と聞いてくださったのです。そして、良くなれるのかという希望が頭をもたげたところに、イエス さまの次なるおことばが届きました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。彼はすぐに直って歩き出しました。
 イエスさまは、昔も今も変わることがありません。イエスさまは私たちを救いたいという一心で、十字架で死んでくださいました。イエスさまの十字 架の打ち傷に代えて、私たちはいやされるのです。今、心を開いてこのお方を信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月19日号(第689号)より転載—




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