自分のふんどしで~見分けの重要性
私は、ある教会の、屋根裏部屋で救いにあずかりました。ですから、自然と日曜ごとにその教会に通い、教会生活にもすんなりとなじむことができました。
教会また教会時代というのは、イエスさまによって生まれたものです。イエスさまが世に来られる前は、律法を守ることが救いへの道でした。しかし、罪ある私たちはとても律法を守ることができません。それで、時満ちてイエスさまは世に来られ、十字架の死と復活によって私たちを贖(あがな)い、罪の赦しを成し遂げ、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。旧約時代は律法を守ることが救いの条件ですが、新約時代では、イエス・キリストを信じることが救いの条件となったのです。
こうして救われた者たちの群れ、それが教会です。ですから、教会につながるということはとても大切なのです。信じて救われたのだから自分一人で信仰を守る、そう語る方も中にはおられますが、これはサタンのささやきで、教会につながっていないと、信仰は必ずおかしくなっていきます。自然界でも、群れを離れた動物は真っ先に敵に狙われます。イエスさまは教会のかしらで、教会はキリストのみからだであると言われていて、信じる私たちは、互いにその各器官です。教会のカバーの中で私たちは守られ成長していくのです。教会に属することがいかに重要か理解していただけたでしょうか。
その上でお話ししたいのは、見分けるという視点を持つことです。教会の決定に従うことが重要なことは分かっていただいていると思います。しかし、盲従はいけないのです。あなたの信仰は、他人任せの信仰になっていないでしょうか。長い物には巻かれろという言葉があります。教会の、力ある立場の人の言葉に巻かれて、教会に従っていれば大丈夫だ、みんなと同じにしていれば間違いないだろう、こんな安心を抱いて直接神に聞くことをやめていませんか。確かに教会の言うことを聞いていれば守られます。それは間違いありません。でも、自ら神にまた聖書に聞いていなければ、大きな落とし穴に落ちる、そんなこともあるのです。
第2次世界大戦が起こった時、日本の多くの教会は過ちを犯しました。その時代、天皇は現人神(あらひとがみ、人の形を取った神)として崇拝されていました。けれども、私たちクリスチャンにとっては、神は、天地を造られた創造主以外にありません。礼拝の対象も、唯一の神以外にありません。たとえ命を失っても、この信仰を貫き通すというのが私たちの取るべき信仰ではなかったでしょうか。でも、残念なことに私たちの先人の多くは世に迎合したのです。「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」としたためて、日本基督教団が立ちました。もちろん、迫害されてまで正しい教えを貫いていった教団もあります。
近世にあれほど多くの殉教者を出した国なのに、大戦下の昭和の時代には世を恐れ、天皇崇拝を受け入れ加担したのです。名ばかりの教会になってしまいました。世には教会を名のっていても、救いの実質を失った教会があります。たとえば、中国の三自愛国教会がそれでしょう。形は教会でも、福音を語ることや神に聞き従うことは語られません。国の政治と一致していることが求められるのです。このような教会は、もはや実質を失った単なる一宗教です。また、正しい神の教会でも、自分で聞かなければならないことを教会に依存していては、段々信仰が曖昧になり、いざ試しが来ると自分ではどうしてよいか分からず倒れてしまいます。
ですから、教会に属するとともに自分の信仰をしっかりと持つことが大切です。よく「他人のふんどしで相撲を取るな」と言います。ですから、いうなら自分のふんどしで相撲を取りましょう。これは信仰のことを言っているのです。教会のカバーの中で自分の信仰を用いて一つ一つを確認し、自ら責任をもって決断し、つながってゆくのです。これは非常に重要です。
聖書にも「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章21節)と書かれています。自ら見分けを持たないでは、道を踏み外してしまいかねません。教会につながるとともに、信仰の自立を目指しましょう。
MIKOE NEWSから転載」 2024年8月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/