2024年8月7日水曜日

自分のふんどしで~見分けの重要性

 私は、ある教会の、屋根裏部屋で救いにあずかりました。ですから、自然と日曜ごとにその教会に通い、教会生活にもすんなりとなじむことができました。

 教会また教会時代というのは、イエスさまによって生まれたものです。イエスさまが世に来られる前は、律法を守ることが救いへの道でした。しかし、罪ある私たちはとても律法を守ることができません。それで、時満ちてイエスさまは世に来られ、十字架の死と復活によって私たちを贖(あがな)い、罪の赦しを成し遂げ、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。旧約時代は律法を守ることが救いの条件ですが、新約時代では、イエス・キリストを信じることが救いの条件となったのです。

 こうして救われた者たちの群れ、それが教会です。ですから、教会につながるということはとても大切なのです。信じて救われたのだから自分一人で信仰を守る、そう語る方も中にはおられますが、これはサタンのささやきで、教会につながっていないと、信仰は必ずおかしくなっていきます。自然界でも、群れを離れた動物は真っ先に敵に狙われます。イエスさまは教会のかしらで、教会はキリストのみからだであると言われていて、信じる私たちは、互いにその各器官です。教会のカバーの中で私たちは守られ成長していくのです。教会に属することがいかに重要か理解していただけたでしょうか。

 その上でお話ししたいのは、見分けるという視点を持つことです。教会の決定に従うことが重要なことは分かっていただいていると思います。しかし、盲従はいけないのです。あなたの信仰は、他人任せの信仰になっていないでしょうか。長い物には巻かれろという言葉があります。教会の、力ある立場の人の言葉に巻かれて、教会に従っていれば大丈夫だ、みんなと同じにしていれば間違いないだろう、こんな安心を抱いて直接神に聞くことをやめていませんか。確かに教会の言うことを聞いていれば守られます。それは間違いありません。でも、自ら神にまた聖書に聞いていなければ、大きな落とし穴に落ちる、そんなこともあるのです。

 第2次世界大戦が起こった時、日本の多くの教会は過ちを犯しました。その時代、天皇は現人神(あらひとがみ、人の形を取った神)として崇拝されていました。けれども、私たちクリスチャンにとっては、神は、天地を造られた創造主以外にありません。礼拝の対象も、唯一の神以外にありません。たとえ命を失っても、この信仰を貫き通すというのが私たちの取るべき信仰ではなかったでしょうか。でも、残念なことに私たちの先人の多くは世に迎合したのです。「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」としたためて、日本基督教団が立ちました。もちろん、迫害されてまで正しい教えを貫いていった教団もあります。

 近世にあれほど多くの殉教者を出した国なのに、大戦下の昭和の時代には世を恐れ、天皇崇拝を受け入れ加担したのです。名ばかりの教会になってしまいました。世には教会を名のっていても、救いの実質を失った教会があります。たとえば、中国の三自愛国教会がそれでしょう。形は教会でも、福音を語ることや神に聞き従うことは語られません。国の政治と一致していることが求められるのです。このような教会は、もはや実質を失った単なる一宗教です。また、正しい神の教会でも、自分で聞かなければならないことを教会に依存していては、段々信仰が曖昧になり、いざ試しが来ると自分ではどうしてよいか分からず倒れてしまいます。

 ですから、教会に属するとともに自分の信仰をしっかりと持つことが大切です。よく「他人のふんどしで相撲を取るな」と言います。ですから、いうなら自分のふんどしで相撲を取りましょう。これは信仰のことを言っているのです。教会のカバーの中で自分の信仰を用いて一つ一つを確認し、自ら責任をもって決断し、つながってゆくのです。これは非常に重要です。

 聖書にも「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(テサロニケ人への手紙第一521節)と書かれています。自ら見分けを持たないでは、道を踏み外してしまいかねません。教会につながるとともに、信仰の自立を目指しましょう。

  MIKOE NEWSから転載」 2024年8月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月31日水曜日

小野小町のつぶやき

 平安時代の歌人、絶世の美女として誉れ高い小野小町は、こんな歌を残しています。「花の色は移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」(現代訳 桜の花はむなしく色あせてしまった。春の長雨が降っていた間に。――私の容姿もすっかり衰えてしまった。生きていることのもの思いをしていた間に。)

 人生があっという間に過ぎ去ってしまったことを小町は、色あせた桜を見ながらしみじみと回想しているのです。美しい桜もやがて見頃が過ぎます。美人の誉れ高い小町も容色の衰えを自覚しました。私もまた今、小町同様しみじみと自分の人生を振り返っています。

 子どもの頃は、時間の流れが緩やかでした。11日がとても長く感じられました。ところが、年を取るとだんだん時間の流れが早くなって、510年があたかも一日かのように飛ぶように過ぎて行きます。

 私は、まもなく還暦を迎えます。現在はぎりぎり59歳ですが、59という数字は私にとってとても大きな区切りとなるものです。昔から60歳からは老人であるという頭がありましたので、何もなさないままこのまま現役を終えるのかと、心に思秋期の風が吹き、初めて老いに向かい合い、また来し方を振り返るようになりました。

 時は残酷です。なぜならそれは一方通行で進んで行くものだからです。あの頃に戻りたいと思っても逆行することはできません。ここで時間を止めたい、立ち止まりたいと思っても淡々と時は流れ先に進んで行きます。まだまだやりたいことがあると思っても、できない状況が増えてきます。

 振り返れば、人生にはすべて「時」がありました。すべての事がいつまでもずっと開かれているのではなく、それぞれの年齢(時)でしかできないことがある、ということに、私はこの年になってようやく気づきました。たとえば、お産がそうです。あくまで一般論として述べさせていただくのですが、子どもを産むことができるのは長く見ても若い頃からおよそ40年ほどの年月です。それを過ぎたら体は老化し、もう子どもを産むことはできなくなります。どんなに欲しいと願っても、過去にさかのぼって始めることはできないのです。時を逃すと閉じてしまう扉が人生にはたくさんあります。今さらやってももはや時遅しということを私も体験し、ずいぶん悔しい思いをしました。年を取ればこういうことは増えてきます。しかし、それが世の習いでありまた神の定めであって、人生には何事にも「時」があるのです。

 ソロモンは伝道者の書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(121節)と書きました。人生の時間を用いるに当たっては、創造主を知ることが重要です。あなたが何をするために生まれたのか、それをご存じなのはあなたをお造りになられた神であるからです。また、何かをするにはやはりまとまった時間が必要です。それゆえ若い日に働きをスタートすることが大切なので、ソロモンはこう書きました。若いというだけで持っているその可能性は甚大です。世を去る前に実を残したいと思うなら、このことばに聞きましょう。

 また、コリント人への手紙第二416節には「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」という一文があります。内なる人とはキリストを信じた私のことを言います。キリストにあれば、私たちは死からいのちに移っています。老いもまた御国の希望で祝福されているのです。小野小町のようにもの思いに沈む必要はありません。

 強く雄々しくありましょう。命が始まったら、そこからはノンストップです。天に帰るまで、地上での生涯は前進あるのみです。そして、行き着いたなら、私たちは、やがて永遠という時代を神と共に生きるようになると知ってください。

  MIKOE NEWSから転載」 2024年7月31日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月24日水曜日

 リバイバル

 TLEAが、まだ国分寺クリスチャンセンターであった頃、すなわち教会のスタート当初から、この教会には海外宣教が開かれていました。私たちは、ロサンゼルスに行きオンザウエイ教会の祈りのチャペルで祈り込み、また某国へ聖書を運ぶ宣教に加わりました。そして、フィリピンのダバオで、初めて本格的なクルセード(大衆伝道)に立たせていただきました。

 クルセードは私たちには未経験の働きでした。ダバオに着いてみると、いやしと奇跡をうたうクルセードとして大々的に宣伝されていて、どうしようかと皆で顔を合わせました。しかし、神の導きは「やりなさい」というものだったので、ともかく行おうと信仰に立ちました。

 おっかなびっくり現地の牧師たちとともに、いやしの祈りを始めると、現地の牧師に集合がかかり、日本チームが壇上に残されたまま、奉仕は継続しました。そこでチームリーダーが耳の聞こえない女性を祈ったところ、なんと聞こえると言うのです。ハレルヤ、ハレルヤと喜び主をたたえる彼女を見て、聴衆の態度が一変しました。多くの者がいやしを求めて一斉に壇上に上がって来たのです。

 そこから起こったこと、まさにそれはリバイバルといえるようなものでした。今まで一度もいやしを祈ったことのない者もチームにはいました。けれども聖霊さまが大きく働かれました。白内障を祈ると、なんと白目に黒い点が現れて点がどんどん大きくなっていきました。そしてついに黒目になり、完全に見えるようになりました。また、足の悪い方は、祈ると片方の足がもう片方の足の所までみるみるうちに伸びて、いやされました。

 後日、帰国したメンバーの一人は、ためらいながらこう述懐しました。「自分に信仰があればこうなることも分かるんです。けれども、僕にはいやしの信仰がなかった。なのに、その僕を通してさえどんどん人々がいやされてゆくのです。これはどう理解すればよいのでしょう。」

 思うに、信仰は神のことばに従うことにあります。私たちの内側の確信も大切です。けれども、たとえ確信がなくても、行いによって神さまのことばに従うなら、神さまのみわざが現されます。フィリピンのクルセードという神の計画に従った結果、主は既にその働きの実さえも用意されていたのだと思います。

 そして、これはリバイバルを約束されるために、神さまが前もって教会に、また私たちにその一部始終を見せてくださったのだと私は確信しています。また、そこで起きた聖霊さまの顕著な働きに関しては、フィリピンという国自体に働く聖霊の動向がこの働きと密接に関係していたと考えています。

 聖霊が働くところ、人を選ばないということは確かにあると思います。滝のように聖霊が臨む時、その働きを取り次ぐのは、特別な器ばかりでなく、そこここにいる私たちもまた、聖霊の働きを流す管として用いていただけるのです。それを地で行くかのようにこの無名のチームは豊かに用いられ、多くの神の栄光が現されました。

 フィリピンでの最終日、チームはデボーション箇所を通して主からこう語られました。「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカによる福音書17910節)

 彼らは皆、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」こう告白して帰国の途に就きました。全員の内に心に大きな喜びがあったことは言うまでもありません。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年7月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月17日水曜日

岩の土台・砂の土台

 試練が来ると、私たちの土台が試されます。マタイの福音書7章には、二つの家のことが書かれています。一つの家は岩の上に建てられた家で、もう一つは砂の上に建てられた家です。外から見た場合、この二つは何ら変わるところがありません。

 ところが、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、岩の上に建てられた家は、びくともしませんでした。でも、砂の上に建てられた家は倒れてしまい、しかもそれはひどい倒れ方をしました。

 イエスさまは、この両者の違いは、主のことばを聞いてそれを行うか行わないかの違いであるとおっしゃいました。神のことばを土台にするか否かでこれほどの違いがあるのです。いうまでもなく試練は、私たちの土台が試される機会です。付け焼き刃で信仰を持とうとしてもそんな簡単にいくものではありません。日々の信仰生活の中で神のことばに聞き、それに従っていたかどうか、はからずもそれが問われてくるのです。

 同様な記事がコリント人への手紙第一3章にも見受けられます。私たちの人生のことなのですが、私たちはイエス・キリストという既に据えられた土台の上に、それぞれが、金、銀、草、わらなどでそれぞれ建物を建てます。そして、やがて主の日が来、火をもってそれらの建物は試されます。もし、建物が残るならその人は報いを受け、建物が焼ければ、損害を受けますが自分自身は、火の中をくぐるようにして助かる、と書かれています(1015節参照)。いずれにしても、建物の真価が試される日というのが必ず来るのです。

 一人一人が、人生という建物を建てます。しかし、その良し悪しは決して見た目では分からない、これが私たちにとって難しい所です。後の日に、火が真価を試すのです。また、試練の大水や大風が吹き付けてくると、その時、何を土台としていたかが明らかにされます。

 先日来、私はある悩みの中に置かれています。その中で私は自分の土台を見せられました。思っていたより遥かにもろかったです。というのも、神のことばがあったにもかかわらず、あまりにも状況が厳しいので、恐れに支配され、神のことばを信じるより現状に右往左往されました。つまり私は、自分という砂の上に土台を置いていたのです。神により頼むということを聞いてはいましたが、真に悟ってはいなかったのです。

 揺るがないもの、それは神でありそのことばです。イザヤ書にも「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(408節)と書かれています。たとえ天地が滅びても神のことばは立つのです。永遠に変わらない神のことばを土台とすること、これが岩の上に家を建てるということなのです。それを神は教えてくださいました。実に神は、私たちの戦いを戦ってくださるお方です。何が起こっても恐れるに足りません。

 皆さんは人生の土台にどちらを選びますか。どうか神と和解し、この岩なるキリストの上にあなたの人生を建て上げてください。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年7月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月10日水曜日

 たとえ一人であっても

 自分1人の力では何もできない、時々私たちはそう考えるものです。何かを成し遂げるには人との協力が必要だということは、私たちにとって自明の理でありそれを否定することはできません。しかし、もし神が共にいてくださるのなら、たとえ1人であっても、できないことは何一つないのではないでしょうか。

 神が共におられるなら、たとえ1人であっても戦いに勝利する。このような話は聖書に幾つも記載されています。顕著な例はダビデです。サムエル記第一17章はペリシテ人とダビデの戦いを記しています。ペリシテ人ゴリアテは職業戦士で、朝夕イスラエルの陣営をなぶりに来ます。「お前らの内から1人を出せ、さしで勝負しようじゃないか」。するとイスラエルの陣営の戦士たちは震え上がるのでした。

 兄を訪ね戦場に来たダビデは、たまたまそれを聞き、激高します。そして、単身ゴリアテに立ち向かいました。ダビデは言います。「おまえは、剣と、槍(やり)と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(中略)この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(4547節)

 こうして、ダビデは投石袋から石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ゴリアテの額を打ちました。すると石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。ダビデには一振りの剣もなかったのですが、一つの石でいとも簡単にこのペリシテ人を打ち殺してしまいました。これが、主の戦いというものです。戦われるのは実に神なのです。ですから、奇跡と呼べるような勝利がもたらされたのです。ダビデは1人でした。けれども、主の戦いに立った時、その1人のダビデを通して、神は圧倒的な勝利を与えられました。

 同じように、たった1人で神の陣に立ち、勝利した人がいます。列王記第一18章に登場する預言者エリヤです。エリヤは、ひとり残った主の預言者でした。そして、異教の神バアルを信奉するバアルの預言者は450人いました。主の民でありながら、バアルに心を寄せ、心の定まらないイスラエルの民に対して、エリヤはある提案をします。

 「それぞれ雄牛を1頭用意し、それを切り裂き、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。そして信じる神の名をそれぞれが呼び、天からの火をもって答える神が真の神だ」。こう言うと、民はみな答えて、「それがよい」と言いました。

 まずバアルの預言者たちから始まりました。大声でバアルの名を呼び、ならわしに従って剣や槍で自分の身を傷つけ血を流しました。しかし、何の声もなく答える者もなかったのです。

 エリヤは、民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言いました。そして、主の祭壇を立て直し、全焼のいけにえの雄牛とたきぎの上に多くの水を注ぎました。水は祭壇の回りに流れ出すほどでした。そして言います。「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」。すると、たちまち主の火が降って来て、全焼のいけにえとたきぎと石とちりを焼き尽くし、水もなめ尽くしてしまいました。これを見て民は、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言い、主に立ち返ったのです。

 たとえ1人であっても、その心が主とまったく一つであるなら、神はご自身の御力を現し、圧倒的な勝利を与えてくださいます。人にはできないことでも、神におできにならないことは一つもありません。それゆえ主を信頼し、しっかりと信仰に立ちましょう。あなたが直面している戦いは神の戦いです。たとえ1人であっても、あなたが立つなら、神は必ず栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年7月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月3日水曜日

喜びに満たされて

 今は天国におられるマーリン・キャロザース師は召される直前まで私たちに、すべての事を感謝するということを教えてくださいました。悪いと思われることも感謝しましょう、それもすべて神は益としてくださいます、と語り、大きな声でプレイズ・ザ・ロードと主をほめたたえていました。

 そのマーリンさんを見て、私はびっくりしました。輝いているのです。体じゅうが明かりがともったように、一点の曇りもなく明るいのです。ハレルヤ!と喜ぶ様子は、さながら地上で天国を生きているかのようでした。こんな喜びが世にあるとは思いもしないくらい全身が明るく照り輝いていました。

 旧約聖書にモーセという人物がいます。彼もまた神の人で、4040夜シナイ山で主と共にいて、あかしの石の板2枚を持って下山します。彼は、主と話していたので自分の顔の肌が光を放っていることを知りませんでした。でも、アロンとすべてのイスラエル人が下山したモーセを見ると、何と彼の顔の肌が光を放つではありませんか。それで、彼らは恐れてモーセに近づけませんでした(出エジプト記342830節参照)。モーセは、顔と顔を合わせて神と交わっていたので、神の栄光を反映していたのです。これもまた稀有(けう)な事例です。

 マタイの福音書6章でイエスさまは、このように語られました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(2223節)

 目は心の窓といいます。人の内側の状態は目に現れます。マーリンさんの目は喜びにあふれていました。そして、この聖書のことば通り、その喜びその明るさは、前述したようにからだ全体を照らすほどのものであったのです。

 反対に、目が死んでいるということもあります。病気、世の煩い、諦念、心配、絶望それらはすべて目に宿ります。目は口ほどにものを言い、というように目は内側の心を反映させるのです。あなたの目はどうでしょうか。健全でしょうか。健全でありたいですね。そのためには、何より心が健全であることが必要です。

 健全な心とは、神が下さる喜びに満たされることです。これがこの輝きの答えです。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。喜びは泉のようにこんこんと湧き上がり、あなたから周りにあふれ広がっていきます。

 イエス・キリストを救い主としてあなたの心にお迎えしましょう。そうすれば救われ、今まで経験したことのないような喜びを、神はあふれるばかりにあなたの心に注いでくださいます。そして賛美することで、さらにこの喜びは増し加わります。それは尽きることがなく、あなたの全身を明るく照らし、この地にあって私たちに天の喜びにあずからせてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年7月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月26日水曜日

教会時代

 今から、約2千年前にイエスさまはこの世に来られました。罪により死に定められている私たち人間に救いを与えるため、十字架で死なれ3日目によみがえり、私たちの罪の贖(あがな)いを全うされました。そして昇天され、今は天で神の右に座しておられます。

 イエスさまは、世の終わりに再び世に来られること、すなわち「再臨」を約束されました。その日が来るまでは「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇1101節)のことばに従って、地上での働きを私たちに委ね、サタンがご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 その再臨までの期間に「教会時代」が挿入されました(ダニエル書92527節参照)。これは、主イエスによって導入された時代また期間です。主の働きは、イエスさま個人を通したものから、教会を土台とし教会を通して行われるものに変化しました。イエスさまは教会のかしらであり、教会はキリストの花嫁だといわれています(エペソ人への手紙5章、ヨハネの黙示録19章、21章参照)。主イエスの再臨に備えて、花嫁なる教会を一つのみからだとして御前に立て上げてゆくことがこの時代における働きの中心です。

 また、神は地上における大患難の苦難から私たちを守るため「携挙」という奥義をもって私たちを天に引き上げてくださることを約束されました(テサロニケ人への手紙第一417節参照)。これは空中再臨と呼ばれ、その後患難時代後半の大患難時代に入って教会時代は終わり、終末の黙示録の最後の時代となります。そこでは花嫁なる教会と子羊イエスの婚姻がなされ、新しい天と新しい地がもたられることが書かれています。

 このような流れがあって、今のこの教会時代にイエスさまは、みこころをもって天に留まっておられるのです。それは、より優れた宣教の働きのためです。ヨハネの福音書1232節でイエスさまは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」とおっしゃいました。確かに、地上での宣教には限界があります。肉にあるうちは、どう頑張っても一度に1カ所にしか居られません。けれども、天に行くなら、主は地球上のあちこちにあまねく遍在することができ、働きは比べ物にならないほど広がります。

 また、同16章では「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7節)というイエスさまのことばがあります。その約束はペンテコステの日に実現しました。そしてこの聖霊降臨を境に、教会が、教会時代がスタートしたのです。助け主とは、聖霊さまのことで、聖霊は日々私たちに神の道を教え、信仰に堅く立つよう導いてくださいます。

 この終わりの時代、イエスさまはその宣教の使命を教会に委ねられました。エペソ人への手紙では、「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(12223節)と書かれています。

 教会は神の奥義です。そして私たちは、それぞれこのキリストのみからだなる教会の一器官なのです。互いに和合し、時を見分け、かしらなるキリストに聞き従い、主が再び来られるその道を備えてまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/