戦争と平和
世界で最初の原子爆弾は、1945年8月6日に日本の広島に投下されました。それまでにはないような恐ろしい破壊力を持つ爆弾でした。14万人の人が、この一つの爆弾で命を失い、阿鼻(あび)叫喚ともいえる地獄絵図を見るように、あちこちで助けを求める声が上がり、痛みに耐えきれず川に飛び込んだ人もいました。建物も無残にも損壊し、美しい街は一瞬で廃墟になりました。
それから、今まで80年の日々が過ぎました。86歳になる私の母は、第2次世界大戦を体験し、戦闘機から狙い撃ちをされた体験を覚えています。それを聞いた時、私は就学前の子どもでしたが、戦争を知っている人が亡くなったら、また戦争は起こるのではないかと、心に影が差し掛かったことを、今も覚えています。
そして、それが当たったのか、今既に戦争は起こっており、世界はあたかも第3次世界大戦へ向かっての道を歩んでいるかのようです。そして、ご存じの通りこの戦争で最も懸念されるのは、核兵器の使用です。この後、全面戦争になったら、もしどこかが核兵器を使用したら、応酬に次ぐ応酬で瞬く間に地球は滅びてしまうでしょう。このような、人類滅亡とも言えるような出来事を、聖書は「主の日」と呼んでいます。
ペテロの手紙第二にはこのように書かれています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(3章10節)
今の戦争で越えてはならない一線は核兵器使用にあります。核兵器を用いるならば、確かに互いの応酬の中で、あっという間にこの地は焼け溶けてしまうでしょう。しかも、その日が必ず来ることを聖書は何千年前の昔から予告しているのです。
広島の広島平和都市記念碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という言葉が刻まれています。平和に対する強い決意がそこにはあると思います。過ちは繰り返しませぬ、その通りです。しかし、この戦争を体験した人はもうわずかになったのです。これからは、戦争を知らない私たちが、平和への真価を問われる時代に入ったのです。
戦争と平和、これは表裏一体にある言葉です。戦争は罪から生まれます。奪い合い、搾取し合い、命が粗末に扱われます。憎しみを持ち、人を殺すことがその仕事です。権力によって、召集令状という1枚の紙切れによって無理やり戦地に送られ、命を奪われます。こんなこと、誰が望むでしょうか。このように、したくない戦争を作り上げてしまうのが、私たち人間の性質です。罪の性質です。
それでは、平和はどのように来るのでしょうか。神は私に「赦し合う心」だと語ってくださいました。私たち個人にある罪に向かい合ってください。生まれながらの私たちは、例外なくありのままの罪人であり、この罪が、巡り巡って戦争を作り上げるのです。それゆえ、人を愛すること、赦し合うことに心を用いましょう。愛は力です。愛はくじけません。愛は不可能を可能にするのです。そしてその原点は十字架にかけられた主イエスのうちにあるのです。
人のために、救いのために、死なれたイエスこそ、まことの救い主また永遠のいのちです。私も、以前は赦せない者でした。憎しみを持った罪人でした。しかも、それを手放すつもりもありませんでした。しかし、イエスさまが、ご自身を知らせてくださったゆえに、愛を知ったのです。互いに赦し合うことが、平和への道であるのです。
ある人は、赦してしまうと「負け」だと思っています。それで頑なに赦そうとしません。でも、世には「負けて勝つ」という言葉があるではありませんか。赦した人が赦されるのです。赦さなければ、自分も相手も依然罪の縄目の中にいるのです。
平和は、私たちの心から湧き起こってきます。赦せない人を赦しましょう。それが戦争にも打ち勝つ力となると私は思います。