2023年3月21日火曜日

十字架の力

 父が、食道静脈瘤破裂で死線をさまよっていた時のことです。ある夜、病院から電話がかかってきました。父が、私を呼ぶようにと言っているので来てほしいという内容でした。何事かと驚いて父の病室に向かいました。既に消灯時間後であったので病院は真っ暗で、気味が悪く、夏だというのに寒気を覚えました。

 病室に入ると、父は「ここに悪霊がいる。何とかしてくれ」と言うのです。私は父の枕元に立ち、手を置いて祈りました。すると、何と父が見ている霊が私にも見えるのです。それらは悪霊で、今まで父が信心していた霊や神々でした。それらの霊がわが物顔で父の死を今か今かと待っているのです。そして言うのです。

 「これは俺のものだ。これは俺から散々利益を受けたのだ。だから今度は俺の奴隷になる番だ」。多くの神々や悪霊が同様なことを言って父を刈り取ろうと集まっていたのです。残念ながら、彼らの言い分は間違ってはいません。霊の世界は、ギブアンドテイクです。霊との関わりで悪霊から益を受けたなら、その見返りが求められます。特に命がその的になることが多く、それは当然と言えば当然の結末なのです。

 しかし、こちらも霊に関しては専門家を標榜(ひょうぼう)しています。ここですごすごと引き下がるわけにはいきません。それに、病気を機に父はイエスさまを信じました。神の子となったのです。勝算は十分にあります。そこで私は、父に一つの聖書のみことばを伝えました。ヨハネの福音書15節です。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」というもので、父にこのみことばに心を集中し、繰り返して語り、それをイメージしてくれるよう頼みました。

 そして、私もまたこのみことばを用いて、主イエスの名によって悪霊に退散するよう命じました。そこで見たのは、十字架の圧倒的な力です。どんな悪霊も、イエスの御名によって命ずると、それに従わないわけにはいきませんでした。また、十字架で流されたイエスの血潮を語ると、どんな霊であっても退散するより他ありませんでした。それはやみの中に輝く光のようで、光が現れたらやみも悪霊も、一瞬のうちに消え去ります。このようにやみは光に打ち勝つことができません。主イエスの十字架の死は働いて、私たちを贖(あがな)うものとなり、私たちの罪や死の負債はすべて十字架によって支払われているのです。イエスの十字架を信じているものは、救われており、永遠のいのちを持ち、死を見ることはありません。

 およそ3時間をかけて、私たちは前述の聖句を土台として、一つ一つ霊との関係を断ち切っていきました。大きなものも小さいものも等しく霊は去っていき、一通りそれが終わる頃には夜が明け染め、父は静かな寝息を立て始めました。悪霊は死を前にした父を取ろうとしてざわめいていました。しかし、神はそれを許されませんでした。

 イエスさまは、私たちの身代わりとなってくださったのです。イエスさまは、約2000年前に世に来られ、十字架で苦しみを受け死なれました。その死によって私たちを贖い、3日目には復活を遂げ、今は天に引き上げられ、天で生きておられます。この主イエスの十字架に引き換えて、私たちのすべての罪は赦され、病もまたいやされるのです。

 こういうわけで今やイエスを信じる者は罪に定められることがありません。病も死も恐れる必要はありません。誰であってもどんな問題があっても、私たちはこの瞬間からも神に立ち返ることができます。聖書もまた、このように書いてあります。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(コリント人への手紙第一118節)

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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