2021年1月13日水曜日

十字架

 今年もまた、25日が巡ってきます。25日は、日本二十六聖人殉教記念日です。1597年のこの日、長崎の西坂にて、幼子3名、外国人宣教師6名を含む26人の者が、キリスト・イエスに対する信仰を全うし、磔刑に処せられ死なれました。彼らは、日本で最初の殉教者となりました。

 西坂は、今は公園として整備されています。そして、そこには十字架のレリーフがあり、その土台には次のような聖書のことばが刻まれています。(新改訳聖書3版より引用)

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書824節)という一文です。イエスさまは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、このことばをお語りになられました。

 そして、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(35節)と続けて語られました。これもまた、殉教を念頭においた一言です。

 殉教は、キリスト教の根幹をなす働きです。殉教の死は単なる死ではありません。神さまは、殉教者の血の報いをなされる方であり、殉教者の血は、リバイバルの種だと言われています。その一粒の死は、多くの人々の救いをもたらすものとなるのです。

 さて、イエスさまは、ご自身に聞き従っていく人生について、実にシンプルに私たちに語られました。それは、前述のマルコの福音書の「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということです。私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負いなさい、とただそれだけなのです。あくまでそれは自主性に任されています。

 とはいえ、自分を捨てるなどということは、あだやおろそかにできるものではありません。この場合は自分を捨てるということは、「自分以上に主を愛する」ということです。ですからみな喜んで死を選び、主に従うことができたのです。

 世には多くの宗教があります。けれども、こんな信仰は聞いたことがありません。根っこから違うのです。罪と欲にまみれた拝金主義はもうこれ以上先には行けません。救いも御国に与ることも彼らは何一つできないのです。

 そして最後に、十字架を負うことには報いがあるのだということも知っていただきたいと思います。主にあって死んだ者たち、殉教者たちは、天で永遠の報いと各々の行いに応じた冠を授けられます。二十六聖人は、はるかに天を仰ぎ見て、永遠に至る人生を見ていました。それ故、かりそめの命を捨てたとしても、真の命、永遠の命を得ることを知っていたので喜んで忍ぶことができたのです。

 あなたもまた、イエス・キリストをあなたの救い主として心にお迎えしましょう

  MIKOE NEWSから転載」 2021年1月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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