2013年9月12日木曜日


無名の人

 先週、東京から上司にあたる牧師ご夫妻が北海道に来られました。新年度に出
る、新しい賛美曲の選定をされ、私たちは約一週間ずっと車で賛美の曲 を聴き
続けました。これは私にとってこの上ない祝福でした。賛美の霊の力が、今まで
のどの時より強く注がれているのに驚きました。その中で、私は 賛美によって
素晴らしい体験をしました。
 さながらそれは黙示録4章のようでした。10節にはこう記されています。「二
十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生き ておられ
る方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出し」主を拝したというものです。
 冠は、働きに対して主が授けてくださった特別なもので、天において最も価値
がある尊いものです。それを24人の長老たちは、それを下さった神に 投げ出し
たというのです。栄光の全てを、主にお帰しておられるのです。
 私もまた、賛美の臨在のうちに心が溶かされていきました。賛美が霊に触れ、
賛美を口ずさみ、賛美を歌う喜びが私の心を支配すると、自分は何と幸 せなの
だろうとつくづく思いました。もう、何もいりません、ただあなたがあがめられ
ますように、これが本心でした。人々の中では無名であっても、 神には知られ
ている、その喜びを知らされ、どうかあなたをたたえる者の一人に加えてくださ
い、とそんな祈りをしていました。それは私にとって、本 当に幸せなひと時で
した。
 ダビデは、詩篇でこう語っています。「私は一つのことを主に願った。私はそ
れを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗 しさを
仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」私の心もまた、この歌そのもの
です。 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年9月15日号(第745号)より転載—

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