2013年6月14日金曜日


不思議
 私たちの教会は、開拓で始まって以来29年を数えます。今思うと、開拓当初か
ら、この教会には不思議なことが満ちていました。何が不思議かとい えば、や
はり神さまの主任牧会の手があることです。目には見えませんが、神の手が私た
ちを支え続けていました。私はそこで起こったことの証人の一 人です。
 この29年の間に、私は学生であったり主婦であったりして、立つ所もさまざま
に変わって行きましたが、その中で私もいくつかの海外宣教に加わら せていた
だきました。顧みればこれだけでも、私には大きな不思議です。
 教会に海外宣教が開かれたこと自体、大きな不思議なのですが、その費用の与
えられ方もまた不思議でした。主がそうしてくださった、としか言いよ うがな
い形で与えられるのです。ある時には、奇跡の手が動き、お財布の中のお札が増
えていた、ということさえおこりました。
 さまざまな不足の中にあったにもかかわらず、献身してからこのかた、約30
間、神がみこころとされた海外宣教には何がなくても必ず出てゆくこ とができ
ました。なんと不思議なことでしょう。
 先日、家族で感謝の宣言をしました。問題を前に、もう何の可能性もなくなっ
た時、歴代誌に出てくるヨシャパテ王と同じように、私たちは喜びの声 賛美の
声を上げて、問題が既に解決されたことを感謝しました。その結果、私たちは神
さまの大いなる栄光と解決を見たのです。
 主をあがめます。私たちには、神の手が、置かれています。誰であっても主に
信頼するなら、主は不思議なことをなしてくださいます。全ては私たち の信仰
をたてあげるために神さまが許されたことなのです。神さまを恐れ、また信頼し
ましょう。(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年6月16日号(第732号)より転載—

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