2012年3月25日日曜日

信仰義認

 新約聖書の中の代表的な人物というと、ペテロとパウロが挙げられます。ペテロが無学な漁師であったのに比べて、パウロは、誰もが認めるエリート中のエリートでした。
 彼自身こう言っています。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法について はパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ人への手紙3章5、6節)
 これらは、当時のユダヤの人々から見れば、羨望を覚えるものです。しかし、パウロは、それを捨て、ちりあくた同然のものだと言いました。なぜで しょう?
 先ほど、引用文の中で、「律法による義」という表現がありましたが、ここに鍵があります。パウロは「信仰による義」と出合ったからです。
 律法によって義と認められることはありません。誰も律法を完全に守ることはできないからです。律法は私たちが罪人であることを教え、それ故、イエスさまの十字架を信じる、「信仰による義」へと導くのです。
 イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであり、この十字架によって、私たちの罪は完全に贖われたのです。この十字架を信じるなら、神さま は私たちを義としてくださるのです。
 キリストを信じる信仰による義、これこそがパウロが推奨するものです。何かをなしたことなどではなく、ただキリスト・イエスを信じるなら、皆、救われるのです。これを、信仰義認といいます。ですから、どうぞイエス・キリストの福音を信じてください。ただ信じるだけで、私たちは救われ、永遠のいのちが与えられるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月1日号(第669号)より転載—



0 件のコメント:

コメントを投稿