2018年5月16日水曜日

 

 かれこれ30年になるでしょうか。教会のメンバーでチームを組み、ロサンゼルスのオンザウェイ教会のプレイヤーチャペルに祈りに行きました。
 ここは特別な場所です。ある時、四隅に天使が降り立ち、霧が立ち込めるようなご臨在が会堂いっぱいに満たされ、それを境に人が集まり始め、リバイバルが起こりました。
 そのご臨在に触れ、日本に持ち帰ろうと私たちは四隅に立っては祈り、立ち去りがたい恵みと祝福を受けて帰ってきました。
 臨在のある所にはリバイバルが起こります。これは私たちの確信で、特に賛美にその力があります。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれていますがその通り、神は賛美の中にいてくださり、ご臨在を現してくださいます。
 このことの良い例はパウロとシラスです。彼らは、キリスト・イエスのしもべであり、ローマにおける福音宣教に従事していました。しかし2人は、敵対者に捕らえられ、重罪人を入れる奥の牢(ろう)に足かせを付けられていました。
 しかし、霊はつながれておらず、真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていました。(使徒の働き1625節)
 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました(26節)
 イスラエルの賛美の中に住まわれる方が、やって来られたのです。そのご臨在が鎖を解き放ち大地震を呼んだのです。奇跡が起こりました。
 これが賛美の力であり、ご臨在の勝利です。たとえどこにいようと賛美をささげるなら、そこに主はおられ、ご臨在のうちにあらゆる慰め励ましを無制限に注いでくださいます。(イスラエル北野)


み声新聞2018年5月20日号(第990号)より転載—

2018年5月9日水曜日

青銅の蛇

ヨハネの福音書3章14節で、イエスさまは不思議なことばを語りました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(イエスさまのこと)もまた上げられなければなりません」というものです。これはどういう意味でしょうか。そもそもの出典は、民数記21章になります。
 出エジプトしたイスラエルは、荒野の道を行軍しましたが、その厳しい生活に我慢ができなくなって、神とモーセに逆らいました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナのこと)に飽き飽きした」
 神はこの言葉をさばかれ、民の中に燃える蛇を送られたので、多くの人が蛇にかまれて死にました。
 民はモーセのところに来て悔い改め、神へのとりなしを求めたところ、主は、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と語られました。
 それでモーセは青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけました。神ご自身が語られた通りに、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。青銅の蛇自体に力があるというのではありません。神の約束を信じて仰ぎ見た信仰だけが死を免れることができたのです。
 これは、来るべきイエスさまの、十字架のひな型です。誰でも、どんな罪を犯していても、悔い改めてイエスの十字架を信じるなら、赦(ゆる)され、いのちが与えられます。
 モーセが荒野で蛇を上げ、そこに救いがあったと同じように、イエスさまはご自分が全人類の罪を担い、十字架で死に、3日目に復活し、私たちの贖(あがな)いを完成させられたお方です。
 今こそ時です。イエスを信じ、救いにあずかろうではありませんか。 
(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月13日号(第989号)より転載—

2018年5月2日水曜日


子育て

 かつて、父が「親と言う商売があるなら辞めてしまいたいですわ」とよくこぼしていました。親というのが(簡単に辞めることができる一種の)仕事であるなら(自分は)さっさと廃業してしまいたいものだ、という意味です。時が流れ、自分がかつての父と同じ年齢となって、父が言わんとしたことが分かるようになりました。子育ては、大変な仕事です。
 子育てが取り上げられるのは、多くは初めての子育てで、しかも子どもが小さい時の事に集中します。しかし、いくつになってもその時その時に乗り越えるべき課題があって、子育てはもう、一生の仕事だと思います。
 子どもがはたちになると成人とされるわけですが、就職、結婚、出産など、人生の重大事がめじろ押しで、子どもの自立を見届けてやらねばなりません。ちょうど、自転車の荷台をつかんで支えつつ、そっと手を放しても乗りこなせるまで、子を育て上げるのが親の仕事です。しかし、どうやってそれをなすことができるでしょう。
 あるご婦人がいます。彼女は聖会のたびごとに、2人のお子さんのご病気のいやしを求めて祈りの列に並ばれます。息子さんはご病気がありながら仕事に行かれていますが、今日も行くことができますようにと、彼女は朝ごとに祈っています。何年になるでしょうか。忍耐強くこつこつと祈りが積み上げられていて、彼女の祈りは聞かれています。息子さんを支えているのは、間違いなく彼女の「祈り」であると私は思います。
 子どもを育てることは、前述の父ばかりではなく、誰にとっても忍耐がいるものです。これがいいと思っても強要することはできません。ですから祈りなのです。子育ては祈りです。隠れた場所で祈られたその祈りは確かな実を結ばせます。(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月6日号(第988号)より転載—

2018年4月25日水曜日


ねたみ

 神は、イスラエルが守るべきおきてとして十戒をお授けになりました。これに照らし合わせて人は罪に定められます。
 今日私がお分かちしようとしている『ねたみ』は、「殺してはならない」(第6戒)「隣の人の家を欲しがってはならない」(第10戒)という二つの戒に触れます。
 カインは、弟アベルが自分より優れたささげ物を神にささげたことで彼をねたみました。アベルが自分より正しいことを知り、それがゆえに許せませんでした。彼は弟を殺してしまいました。
 サウルはダビデをねたみました。彼らがぺリシテ人を打って帰ってきた時、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と笑いながら歌う歌声を聞き、サウルは非常に怒り不満に思いました。この日以来、サウロはダビデを疑いの目で見るようになり、殺そうと機会を窺います。
 また、初代教会時代、ステパノが殉教したのも、彼が正しかったからです。祭司長、律法学者たちは、彼が自分たちを裁くのを見るや、分別を失い一斉にステパノに殺到し、石で打ち殺しました。
 イエスさまもまた、ねたみから殺されてしまったと言えるでしょう。祭司長、律法学者はイエスさまを十字架にかけて殺しました。イエスさまが正しい方であること、群衆の支持を集めていること、どれもが彼らにとってねたみと憎しみの対象でした。
 ねたみは、この様に嫉妬と憎しみがペアになって出現してきます。その行き着く所は殺人です。正しい者を正しいが故に憎み殺す、その背後にはサタンの介在があります。ねたみは原罪の一つです。
 イエスさまは殺されました。しかし、復活を遂げられました。それは、私たちを罪から解放させるためです。それ故、悔い改め、神の元に帰りましょう。神はその道を備えておられます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年4月29日号(第987号)より転載—

2018年4月18日水曜日


ペテロ

 何をしても憎めない人。そういう人が世間にはいるものです。イエスの弟子の筆頭であるペテロもその1人だと私は思います。
 イエスさまは十字架につけられる前夜、ご自分が、祭司長や律法学者たちによって捕縛されると弟子たちに語りました。ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても私は決してつまずきません」と言いました。ペテロは、自信満々でした。
 しかし、イエスさまは「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と語られました。
 「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」ペテロはこう言いました。
 ところが、ふたを開けてみるとどうでしょう。弟子たちは皆、イエスを見捨てて散り散りに逃げ去ってしまいました。
 去りがたいペテロは、大祭司の家の中庭まで入って様子を窺っていました。すると女中が、あなたはイエスと共にいた、と言いました。ペテロは「何を言っているのかわからない」と否定しました。さらに別の女中が、次いで居合わせた人が問い詰めると、「そんな人は知らない」とついにのろいをかけて誓い始めました。
 するとたちまち鶏が鳴き、ペテロはイエスのことばに思い至り、出て行って号泣しました。
 ペテロは深く自分自身に失望しました。確かにペテロはイエスさまへの深い愛を持っていましたが、弱さ、を知りませんでした。イエスさまはそのことを教えられました。そして、ご自身の愛によって、後にペテロを建て上げられます。
 ペテロを愛された主は私たちをも愛し、弱さを強さへと変えてくださいます。号泣してもいい。イエスの愛はあなたをも立ち上がらせます。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月22日号(第986号)より転載—

2018年4月11日水曜日


父の喜び

 ルカの福音書15章には、「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」として有名な例話があります。
 ある父親と兄と弟が主要な登場人物で、弟は父に財産の分け前を求め、それを得ると何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 そして放蕩ざんまいをした挙げ句、大飢饉(ききん)が起こり、食うにも事欠くようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せ、豚の世話をしていました。彼は飢えて、豚の食べるいなご豆で飢えを満たしたいほどであったにもかかわらず、誰一人として、彼に与えようとはしませんでした。
 そこで弟は、父の元に帰ろうと決心します。「お父さん。わたしは天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と言うつもりで。
 ところが、まだ家まで遠かったにも関わらず、父は弟を見付け、走り寄っては彼を抱き、口づけしました。そして、最上の着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせ、肥えた子牛をほふり、祝宴を始めました。
 そこに、畑仕事を終えて兄が帰ってきました。状況を聞いて兄は、私はあなたに忠実に仕えているのに、友人と楽しめと言って子やぎ一匹くれたことがない。なのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこの息子には、子牛をほふらせなさったのですか、と怒りをあらわにしました。
 父は、言いました。「私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」
 一人の罪人が神の前に立ち返ることを神はこの上ない喜びとされます。これがこの例話の主題です。あなたもまた主の元に帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月15日号(第985号)より転載—

2018年4月4日水曜日


主を恐れる女

 かつて父が大学の研究室を訪ねてくれたことがありました。そこで働く女性講師が応対してくれました。お前のなりたい姿はあの先生みたいなのか。後で父に尋ねられて、初めてそうではないことに、気が付きました。
 明晰(めいせき)な頭脳に理性的な受け答え、学者として非の打ち所のない先生です。しかし、なりたいという姿ではありませんでした。私が理想とするのは、聖書の箴言(しんげん)31章の12節から31節に描写されている「主を恐れる女」です。
 それはどんなものでしょう。箴言にはこう書かれています。「彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない(12節)」「彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける(15節)」「彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる(20節)」「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ(25節)」「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない(27節)」「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる(30節)」。こんなあんばいです。
 そもそも聖書によると、女性は男性の助け手として男性から造られました。助けになるよう女性には優れた能力が与えられています。専業主婦であっても侮れません。現に箴言31章の主を恐れる女は専業主婦であり、かつまた、手広く活躍しています。
 私も専業主婦ですが、私の食卓は、家の中でもっともにぎやかな空間です。家族のニュースが飛び交い、良い事も悪い事も祈りになります。家庭の中心にはイエスさまがおられます。
 こういう訳で、主婦よ! 大志を抱きましょう。あなたの小さな祈りは聞かれています。何一つとして地に落とされることはありません。主を恐れる女は敵の門を勝ち取ります。(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月8日号(第984号)より転載—