2024年5月29日水曜日

神さまほど誤解されているお方はない

 学生時代、私は求道者でした。夏目漱石が『行人』の長野一郎に語らせた「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という一文は、全くの同感で、私もまた自分の前途を見いだせずにいました。

 特に、信じるということには懐疑的で、それが分からず、信じることは、結局は当人が思い込むことだと思っていました。ですから宗教に入ることは、信じていない自分にとって自分を偽わることであって、救われたいがための無理な取引であるとしか見えませんでした。

 世の中には、私と同じように考える方は決して少なくはないと思います。しかし、今なら分かります。この考え方の背後にはサタンが働いています。サタンが神はこういう方だよと、偽りの情報や誤った思いを入れてくるのです。そして、人はその偽りを見抜くことができずサタンの言葉を信じ、神を敵としてしまうのです。だから、神に愛されているにもかかわらず、それが見えないでいるのです。

 神さまほど誤解されているお方はおられません。いかに神が私たちを愛しておられるか、それは、御子イエスを下さったほどです。ヨハネの福音書にはこう書いてあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(316節)

 神は、鋼鉄のような心の持ち主なのではありません。私たちと同じような血肉(ちにく)通う心で、ありのままに痛みや苦しみを抱かれます。神であるからということで、何の情も伴わず合理的に淡々とイエスを死に渡されたわけではありません。これは、やむにやまれぬ中で神が出してくださった結論です。イエスは神がこの上もなく愛する子であり、しかもひとり子です。イエスに代わるものはないのです。にもかかわらず、神はこのイエスを、世に、また私たちに下さったのです。そこに神の痛みがなかったと言えるでしょうか。

 大いにあったのです。でも、神はその痛みより私たちへの愛を優先させられました。御子を失うほどまでに、私たちを惜しんでくださったのです。神のこの痛みは私たちの救いのために味わわれたものであり、これが私たちに対する神の「愛」なのです。神は私たちのすべての罪をイエスに負わせ、さばきを下されました。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれました。そして、神の大能の力によって3日目によみがえられ、ここに罪の贖(あがな)いが完成し、人類に「救い」が入りました。

 ローマ人への手紙に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」という一文があります(832節)。イエスさまを下さったということは、すべてが与えられたということに等しいのです。これほどまで大きな愛で、神は私たちを囲んでくださっています。

 確かに世にあっては試練や困難があります。神がいるならどうしてこんなことが許されるのかと憤るようなこともあるでしょう。サタンはそれに対して同情を装って、それは君が神に愛されてないからだと言い、見えない神への反発を抱かせます。サタンは被造物一の大うそつきなのです。しかし、試練は神が許されたものであり、神とともに乗り越えてゆくことによって神を知り、大きな祝福をもたらす良きものです。神にあっては、すべては益で、悪い事さえ益となり、その愛は変わることがありません。神はあなたに、最善以外の事はなされないのです。

 まことに、神さまほど誤解されているお方はおられません。多くの人がサタンの口車に乗せられて、実際知りもしない神を憎んでいます。しかし、神はそれを訂正しようとはなさいません。心を向けさえすれば見つけられる所に神は立ち、私たちが自由意志でご自身の元に帰ってくることを待っておられるのです。それゆえ神はこう語られます。

 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ書333節) 

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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