2024年5月15日水曜日

肩書

  人というものは、高ぶりやすく、機会がありさえすれば肉(自分)を誇ります。北海道の政治家に、鈴木宗男さんがおられます。氏はロシアとの関係の第一人者を自負されており、病を押して今も活躍されておられます。なかなかできないことです。けれども、いただけないと思ったのは、ご自分の手柄としてできあがったものに、自分の名前である「ムネオ」の文字を入れるのです。鈴木氏の働きで実現した踏切には「ムネオ1号、ムネオ2」と連綿と書かれていますし、北方領土で互いの交流の場として作られた施設は「ムネオ・ハウス」といいます。自分の名を出す、残す、ということをあからさまに行っているので、彼の働きを評価する一方、人々の失笑を買っています。

 人が偉くなると、自分を偉大な者とする誘惑が来るのか、学歴に関して誇ってみたり、時には虚偽の学歴を公表したりします。真偽はさておき、東京の小池都知事も今それで揺れているようです。また少し前になりますが、ある野球監督の奥さんに、特別待遇の海外留学があったかどうかをめぐって、マスコミがこぞってたたいたことがありました。

 結局、真実は分かりませんでした。しかし、それでいいと思います。というのもこれは誰にでも起こり得ることだからです。人間、偉くなったら、次は肉を誇りたくなるのです。過去にさかのぼって自分は特別な人物であったと世に知らしめたいのです。学歴詐称はどちらかといえば妄想に近く、まったくのうそではないだろうと思います。けれども、話すうちに尾ひれ背びれがくっついて、ついに高ぶってしまい、事実と違う偽りをあたかも事実として主張するようになるのだと思います。

 顧みるに、私たちは何と肩書きに弱いのでしょう。私も役職名を連ねた名刺を頂くことがあります。拝見してお忙しいのだな、と思いはします。しかし、その人を役職で判断することはいたしません。あくまで自分の判断を優先させます。けれども、肩書きを通して自分を見てほしい、自分はこういうものなのだ、すごいだろうと肩書きに身を隠して小さな世界に生きている方は少なくないように思います。ありのままの自分に自信が持てないのでしょうか。肩書きに酔いしれて、立場や役職を手に入れ、自分の前でラッパを吹きます。

 ここで、聖書から1人の人物を紹介したいと思います。それは、パウロです。パウロがもし名刺を持っていたら、どんな役職が付いているでしょう。八日目の割礼者、きっすいのへブル人、生まれながらのローマ市民、律法についてはパリサイ人、最高学府であるガマリエル門下生、とざっと数えても彼は人もうらやむほどの経歴(肩書き)の持ち主なのです。彼はこれ以上ないほど多くの肩書きの持ち主であったのです。

 しかし、そのパウロがそのことをどう語ったか、ピリピ人への手紙3章をお読みください。「しかし、私にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(78節)

 いさましい言葉です。ここにパウロに起こった大きな変化が述べられています。パウロは、主イエスを知ったことによって、かつては「得」であった持てる肩書きのすべてを、「ちりあくただ」と言い切りました。これはまた、私たちクリスチャンにとっても同様で、私たちの唯一の肩書きは救い主であるイエス・キリストご自身であり、それ以外には無く、かつそれで十分なのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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