2024年5月23日木曜日

芝桜

  先日、ある方から芝桜の苗床を頂き、副牧師が教会の庭に植えてくれました。私は、北海道に来て初めて芝桜というものを知りました。桜と言っても、木のように枝や幹を持ちません。芝生のように地面を覆い、強烈な原色の桜が、白、ピンク、赤と、辺り一面に敷きつめられ、花を咲かせた様子は圧巻です。また、この芝桜は、強く根を張ることで知られていてどんどん周りに増え広がってゆきます。

 今回、皆さんとお分かちしたいのは、この「根を張る」ということです。マタイの福音書13章でイエスさまは、群衆に「種蒔きのたとえ」というお話をされました。種とはみことば、すなわち神のことばで、種が蒔(ま)かれる土壌は、大きく分けて4通りあります。

 一つ目の種は、道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。これは、御国のことばを聞いても悟らないというケースで、せっかくの神のことばなのに、ことばがサタンに持ち去られてしまいます。次は、土の薄い岩地に落ちた種で、これはすぐ芽を出します。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいます。これは、みことばを聞くと喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうというケースです。

 また、別の種はいばらの中に落ちました。これは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため実を結ばないというケースです。最後は、良い地に落ちた種で、これは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人は100倍、60倍、30倍の実を結びます。

 今日はこの2番目の、土の薄い岩地に落ちた種について考えたいと思います。私は、5人家族の中の初穂として救われました。ところが父は宗教嫌いで、時には暴力をもってしても、棄教するよう迫ってきました。父は神を憎んでいたかもしれません。その憎しみは神を知ったと明言した私に遠慮会釈なく向けられ、この父のもとで信仰を持つ困難さは、大げさではなく命懸けでした。友達やその家族は、こんな苦労もなく救われて教会に行っている、平和で祝福されている、なのになぜ私と私の家族だけこんな目に遭うのかと、何が違うのだろうかと、ずいぶん悩みました。

 しかし、時は流れ、やがて神の時が来て、聖書で約束されているように、私たちの家族は父を含めて全員が救われました。主は真実です。そして、私は知るのです。私にとっては迫害と言えるほどの困難をくぐったのは、主のこの上ない祝福であったと。神は困難の中で、私の信仰の根を岩地の中深く育てていてくださったのです。

 父に背いても受洗すると決意した12月、しかし私はその時病院のベッドの上でした。身じろぎ一つできない中で、幻を見ていました。それは、土の中にある一つの種です。その種は私だったのでしょう。神さまは、「この種は死んでいるのですか生きているのですか」と問うてこられました。「主よ、あなたがご存じです」と言うと、土の中にある種からかすかに根らしいものが生えいでてきたのです。そして、見るたびに少しずつその根が伸びてゆくのです。根は地中深く下ろされていきました。そして、次に芽が造られようとした頃、入院して教会や礼拝から離されていた私に、「まもなくここを出て、地上に芽吹く。そこは聖霊の風が自由に吹き、光が照らす新しい世界だ」。神は私にこう語り、それを約束してくださいました。

 試練は恵みです。父が私のそそり立つ壁となってくれたゆえに、私はこの宗教の真偽を根本から問いました。迫害されたゆえに、信仰が鍛えられました。問題がないことは祝福のように見えます。でも、信仰の面から見ればそうではないのかもしれません。問題があるからこそ、神の近くにいられるのですから。そして、困難の中には必ず神の深い慰めがあります。この慰めこそ私たちの報い、そして取り分です。

 芝桜はその根をしっかり広げます。私たちもまた信仰の根を広げましょう。そして、この地を占領し、おびただしく増え広がりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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