2024年2月1日木曜日

パウロのとげ

  長年人生を歩んでいると、問題を持たない人は1人もいない、ということがだんだん分かってきました。あの人もこの人も、口にこそしないですが、解決に悩む問題を抱えています。そして解決に至るまでの長い忍耐を余儀なくされています。子どもでさえも例外ではなく、子どもには子どもなりの切実な悩みがあります。

 後に、キリスト・イエスの使徒となったパウロは、非の打ち所がない経歴の持ち主でした。生まれながらのローマ市民で、ガマリエル門下、エリート街道まっしぐらで来た青年です。このような人物なら悩むような問題はないだろうと人は思うかもしれません。そんな彼にもし、悩むような問題があるとすれば、それは近頃起こってきたイエスとその教えでした。これに反発したパウロはイエスを信じる者を憎み、老若男女を問わず激しく迫害しました。

 ところが、ダマスコまで来た時、突然天からの光が彼を照らしました。パウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」という声を聞きます。「主よ。あなたはどなたですか」と言うと「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とお答えがありました(使徒の働き26章参照)。

 パウロは主の顕現にあずかったのです。そして、ここから彼の人生は一変します。パウロは迫害者どころかキリスト・イエスのしもべとなって十字架を負うようになりました。パウロがいかに主のために苦しみに会ったのかは、コリント人への手紙第二11章に書いてあります。ユダヤ人から39のむちを5回も打たれ、石打ちに会い、投獄され、難船に見舞われ、一昼夜海上を漂い、いろいろな難に会い、労し苦しみ、眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、裸でいたこともあり、死に直面したことは数え切れないと言います。

 パウロはそこから、自分の弱さとそこにある神の助けを学びました。同12章でパウロはこう言いました。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです7節)。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました8節)。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう9節)」

 肉体のとげが何であるのかは、聖書には言及されていません。しかし、それはパウロが高ぶることのないために許されていることは確かです。パウロはこのとげが取り除かれるよう3度も神に求めました。しかし、神はお許しになられなかったのです。なぜでしょうか。それは、一つには神の栄光を盗むことのないためです。そして二つ目は、神は弱さを土台として働かれるからです。私たちは、神という素晴らしいお方を上にお乗せする「土の器」、あるいは「ロバの子」なのです。中心は神であり、私たちは、神の栄光の現れの妨げになってはならないのです。そのために、神はとげを、弱さを、私たちに許されるのです。

 しかし、これは神が私たちを愛していないということではありません。へブル人への手紙126節に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」と書かれています。神はご自身にあずからせるために、私たちに問題や弱さを許されるのです。

 みなさんにも、人知れぬとげや弱さがあるでしょう。悩みや問題の解決を祈って願って期待して、気が付けばもう何十年にもなるということも珍しくありません。求められるのは忍耐で、忍耐は重い鉄の扉のようです。一体いつになればこの扉は開くのでしょう。いつまで待てば応えられるのでしょう。こうして私たちの信仰は試されます。

 しかし、ついにその日はやってきます。私たちの信仰は報われ、約束されたことが成就します。もし、願いがかなわなかったら、それはそれで神はその理由を教えてくださいます。その場合はさらに優れたものが用意されていることが多いのです。それゆえ決して希望を捨てず、主を信じましょう。主への信仰は必ず実を結び、決して失望に終わることはありません。

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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