2024年1月24日水曜日

殉教

  今年も、また25日がやって来ます。1897年の25日、長崎で日本で最初の殉教者が出ました。子ども・外国人宣教師を含む26名の者が西坂で磔刑(たっけい)に処せられ殉教しました。彼らは日本二十六聖人と呼ばれ、今なお、その信仰が多くの人に力を与えています。

 私もまた、妹と2人で西坂を訪ねました。二十六聖人のレリーフがあり、その中心にマルコの福音書の1節が刻まれていました。「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て、十字架を取りて我に従うべし」(834節)

 これは、イエスさまのことばです。はっきりとしたことばです。主イエスに従いたいと思うなら、自分を捨て十字架を負って主に従いなさいというのです。二十六聖人はまさにそのことばを生きたのです。

 その日から、己を捨て、ということが私の課題となりました。これは最も重要な事柄なのです。私たちには、自分の思う通りに生きたいという自我があります。それに死ねるかということが私の内なる戦いとなりました。これに関しては、神さまの助けと恵みによらなければ、肉の力ではできないと思います。

 ヨハネの福音書21章は、復活したイエスがペテロに現れてくださったことが書かれています。ペテロは3度イエスを否定し、裏切りました。そのこともあるのでしょうか、主は3度ペテロに「わたしを愛しますか」と尋ねてくださり、心砕かれたペテロは、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と申し上げました。そして「わたしの羊を飼いなさい」と牧者としての召命を受けたのです。

 そして、イエスさまはこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(18節)。「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。」(19節)と聖書は書いています。

 私たちも、若い頃は、キリストを知る以前は、自分の思うままに生きてきました。しかし、イエスさまを知り、やがて従わんと欲せば(すべてを捧げて主について行きたいと思うようになると)、自分の負うべき十字架を知るようになるのです。そして殉教に至る道を歩くようになります。

 伝承によれば、ペテロはローマでの迫害に耐えかねてローマを逃れようとした道中、イエスさまに出会います。「ドミネ・クォ・ヴァディス(主よ、どこにゆかれるのですか)」と問うたところ、「ペテロが見捨てたローマで、もう一度十字架にかかるのだ」と聞き、ペテロはすぐにローマに引き返し、逆さ十字架にかかり殉教します。ペテロは死にますが、やがてローマがキリスト教を国教とするまで、その殉教の死は神によって用いられています。

 この世の命が失われても、生きていること以上の働きが神によってなされます。それを知っているので、日本二十六聖人もペテロも喜びをもって殉教していったのです。私たちの人生はこの世のものではありません。天に備えられた殉教者の冠こそ、まことの報い、私たちの永遠の取り分です。

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年1月17日水曜日

慰めの神

 コリント人への手紙第二1章に次のように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(34節)

 皆さんの中にも、この神さまの慰めを味わった人は少なからずおられると思います。神の慰めは往々にして試練の中で与えられます。耐え切れない苦難困難にある時、神さまは私たちをねんごろに慰めてくださいます。確かに誹謗(ひぼう)中傷でひどく傷つくのですが、心の根っこの所で温かいものが常に私を取り囲んでいました。そして、そればかりではなく、そこにはかすかな喜びさえあるのです。これは、何でしょう? どん底にたたきつけられ、ささくれるはずの場面で、神は慰めをもって心を守ってくださり、揺るぎない平安を与えて下さいました。神は私たちの心に寄り添い慰めてくださるのです。そして、自分が弱ければ弱いほど、その慰めは心に響きます。

 詩篇でしばしば登場することばに「隠れ場」ということばがあります。ヘブル語で「セーテル」というこの語は、英語ではハイデングプレイス(隠れた場所)とか、シェルター(避難所)とも訳されています。あらゆる攻撃から守られるよう神が用意された逃れの場所です。

 詩篇91篇には、こう書かれています。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」(1節)。また、31篇には「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます」(20節)とあり、32篇には「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」(7節)と書かれています。

 これもまた、神の慰めを語っているのです。「隠れ場」は、慰めの場所です。全能者が御手を置いておられる所であり、神は私たちを覆う陰となり、苦しみが過ぎるまで私たちを隠してくださいます。また、中傷やののしりから逃れ、息をつかせてくださいます。神は苦しみから私たちを守る避け所です。そして、ついには救いの歓声で私たちを取り囲んでくださるのです。

 この「隠れ場」は、世のある限り常に私たちのために開かれています。神に身を避けることは人に求めるよりはるかに優れています。神があなたの力となり、神は直接あなたを慰めてくださいます。人の慰めは不完全でかえって傷を広げかねません。しかし、神の慰めは謙遜で深く、いのちに至らせ、そのあわれみは大きいのです。

 マタイの福音書1220節に「彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」と書かれています。彼とはイエスさまです。神はありのままのあなたを受け止め、いつくしみをもってあなたがご自身のもとに来るのを待っておられます。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともありません。むしろ支えとなり、また燃え立たせてくださいます。それゆえ、あなたもまた、神を信じて、イエス・キリストを救い主として、あなたの心にお迎えしましょう。慈愛と慰めに満ちた神の愛は、これから先も決してあなたを離れるものではありません。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年1月11日木曜日

ただ忠実でありなさい

 私たちは人と自分を比べてしまいやすいものです。そして、落ち込んだり、ねたんだり、逆に高ぶってしまったりします。また、世は結果主義で、能力のある人が良しとされます。しかし、神さまはどう見ておられるでしょうか。

 マタイの福音書25章に、その答えとなるたとえが記されています。タラントのたとえと呼ばれる箇所です。タラントとは能力という意味で、主はそれぞれの能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、旅に出かけました。

 5タラント、2タラントを受けたしもべは、すぐさまそれで商売をして、それぞれ5タラント2タラントをもうけました。ところが、1タラント預かった者は出ていくと、地を掘って主人の金を隠しました。

 よほどたってから、主人が帰って来て清算しました。5タラント預かったしもべは、さらに5タラントもうけましたと言い、2タラント預かったしもべも2タラントもうけましたと報告しました。主は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」とおっしゃいました。

 ところが、1タラントを預かったしもべは「ご主人さま。あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」と差し出したところ、主人の怒りを買います。

 「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい」

 ここから読み解けるのは、主人である神さまは、タラントの数の大きい小さいを全く気にしておられないということです。人はタラントの大きい小さいを見てしまうものです。しかし、神が見ているのは能力ではありません。その人の忠実さなのです。与えられたものにいかに忠実であったか、それだけが神が私たちに求めておられることなのです。

 ルカの福音書には、このように書かれています。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(1610節)

 かつて、ある祈りの器(奉仕者)が興味深いことを語りました。小さなことを日々祈っているなら、その人は大きな問題が起こってもそのことを祈ることができる。しかし、小さなことを忠実に祈るという土台を持っていなかったら、大きな問題が起こった時、いざそれを祈りに持っていくことは困難だ。とても祈れなくなるというのです。

 また、同1112節にはこう書かれています。「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」。今の世の忠実さは、後の世に主が私たちに任せようとしているものに関わってくるというのです。

 それゆえ私たちは、それぞれ任され与えられているタラントを用いて働き、神の前に、ただ忠実であることを求めてまいりましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年1月3日水曜日

蒔く者と刈る者

 詩篇126篇にこのような詩があります。「涙とともに種を蒔(ま)く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(56節)

 どこかで、この詩をイラストにした絵を見たような気がします。ありありとその情景が脳裏に浮かびます。これは主(おも)には、福音宣教のことを言っているのでしょう。福音の種まきは戦いがあり、総じて厳しいものです。まさに泣きながら私たちはまきました。けれども、すぐに結果が出るものではありません。これが何になるという試しと信仰の使命の中で、泣きながらまいたのです。

 だからこそ、それが実ったその収穫は、心からの喜びとなりました。ここでは喜び叫ぶと書かれています。決して大げさではないです。収穫は種をまいた者たちへの報いの時です。まかれた種が成長し確かな実を結ぶと、過ぎた労苦を忘れるほどの喜びでいっぱいになります。

 ヨハネの福音書4章で、イエスさまはこう言われました。「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」(38節)

 本当にその通りです。日本においても涙とともにまく時がありました。1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が宣べ伝えられ、福音の種まきがなされるようになりました。急速に宣教は進み、おびただしい数の人々が福音を信じるようになり、時代を動かし、時の権力者を動かし、ついには日本二十六聖人を初めとする多くの殉教者を出しました。殉教者たちは、世の命を捨て、主がその血に報いて大勢のたましいの救いをもたらしてくださることを信じ、一粒の麦として、死んでいきました。

 その報いの時が、いよいよやって来ようとしているのです。空前絶後の刈り入れの時代に私たちはいるのです。イエスさまもまた「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです」とおっしゃいました(37節)。彼らは、まきました。私たちは、刈り取るのです。先人たちの労苦の実を刈り取る、栄光ある務めが任されています。

 イエスさまは、こう言われました。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(3536節)

 時は来たのです。畑は色づいて、刈り入れるばかりになっています。信仰を働かせ、多くのたましいをキリストのもとに導くよう働きましょう。まく者、刈る者双方の喜びの日が来ました。主の再臨に備える後の雨リバイバルは既に始まっています。

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/