2025年5月28日水曜日

放蕩息子

 ルカの福音書15章で、有名な放蕩(ほうとう)息子のたとえという箇所があります。

 ある人に、息子が二人ありました。弟は放蕩息子でした。まだ父が存命中なのに、父に身代を分けてくれるよう願い出ました。父は、そのわがままを聞き入れてやり、財産を兄と弟に分け、弟の分を彼に与えました。

 それから、幾日もたたないうち、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。しかし、彼はそこで放蕩三昧を尽くして、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。

 そこに、その国にききんが起こったのです。彼は食べるのにも困り始めました。それで、ある人の所に身を寄せました。その人は彼を畑にやって、豚(当時忌み嫌われていたもの)の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、誰一人、彼に与えようとはしませんでした。世間は、放蕩息子が思う以上に厳しいものでした。

 こうして、われに返った放蕩息子は、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。』」

 こうして、彼は故郷の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は息子の姿を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。放蕩息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

 ところが父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」。こうして、祝宴が始まりました。

 そこに仕事を終えて帰って来たのが兄息子です。これはいったい何事かと尋ねると「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」。すると、兄は怒って、家に入ろうとしませんでした。

 父は出て来て、いろいろとなだめてみました。しかし、兄は父にこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」。もっともな言い分だと思います。

 しかし、父は彼に言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

 この例話が書かれたのは、一つには神の愛がどれほどあわれみ深いものかを示すためだと思います。神は、家出した放蕩息子であっても彼の事を忘れてはおらず、いつ帰って来るかと常に心を寄せていました。それでまだ家から遠かったにもかかわらず、彼を見つけたのです。そして父は、彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。自分に向かって、「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めている放蕩息子を見ると、父は(神は)、罪のすべてを赦して、助けの手を伸べずにはいられないのです。ここに神の深いあわれみの心が描かれています。それゆえ、祝宴を張って祝ったのです。神の愛とは、このようなものなのです。

 しかし、兄はそれが不満でした。兄が立っていた所は、律法です。子山羊一匹下さらなかったと父を責めました。父の恵みも愛も知らないのです。父は私のものは全部お前のものだ、と言ってくださいました。兄が弟の立場に立っても、父は同じようにしてくださったでしょう。でも、それが兄には見えていなかったのです。なぜでしょうか。それは兄が、父との愛による関係ではなく、ただ律法の内にある関係にしか立っていなかったからです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(19章20節)ということばを語られました。

 忠実だった兄は、本当は一番父の近くにいて、誰より父の愛なることを知っているはずでした。しかし、父の愛を見たのは、放蕩を重ねた罪人である弟の方でした。

 誰でも神に立ち返るなら、そのすべての罪を赦していただけます。神はイエス・キリストを罪の代価として私たちに与えてくださったからです。それゆえ神は、もはや私たちに罪をとがめてはおられません。律法を守ることによっては決して知ることのできない愛を、神は人間に注いでおられるのです。弟はその愛にあずかりましたが、兄はそれを知ることができませんでした。

 私たちもまた、心をかたくなにすることなく、愛なる神を知りましょう。神の愛は、人の思いをはるかに超えて深いのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月21日水曜日

 ザアカイ

 ルカの福音書19章で、ザアカイという人物が登場します。「彼は、取税人のかしらで、金持ちでした」。この一節から、彼がおおよそどういう生き方をしてきたかが分かります。

 いわゆる拝金主義です。取税人は、ローマへ支払う税の取り立て屋であり、しかもその上に上乗せまでして取り立て私腹を肥やしていたと言われています。それゆえ、かれらはユダヤ社会では嫌われ者でした。その取税人のかしらというのであれば、もうけのために相当悪いことをしてきたことでしょう。

 箴言17章8節に「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。」と書かれています。これが、お金の力です。わいろの見返りというものは、必ず贈り主に帰ってきます。どうやって財産を築いたか、ザアカイはお金の力を知り尽くしていた人だと思います。そして、お金以外信じられない人になっていただろうと思われます。

 あるファーストレディーが、「私、お金のない人はだめなの」と公の場でこう語ったことを聞きました。世の中には本音としては彼女の言葉に同調する人は多いと思います。では、お金持ちはぜいたくか、といえば必ずしもそうではないのです。金持ちほど、お金を使いたがらない傾向があります。それは、彼らがお金を信じているからです。信じるお金が減ることは耐え難いことなのです。蓄え蓄え、お金に仕えるような人生を送り、またお金を持っている自分にうぬぼれていますが、それがみじめな生き方であることには全くというほど気づいていません。確かにお金は、至る所で通用する力があるからです。しかし、こんな現実だけを見るだけの考え方で果たして良いのか、と私は疑問に思います。

 イエスさまは王であるのに、ご自分の国である世に来られた時、貧しさの中に身を置かれました。自分を富ますことをせず、人々にご自分を与え尽くされました。また、マタイの福音書6章には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(20、21節)と語られ、改めて私たちの宝、私たちの心がどこにあるかと問われました。

 そして、24節でははっきりとイエスさまは「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とおっしゃいました。

 こんな中で、ザアカイはイエスさまに出会ったのです(ルカの福音書19章1~10節参照)。ザアカイは、地元で評判になっているイエスさまにぜひ会ってみたいと思っていました。何かが、ザアカイの心を動かしていたのです。しかし、彼は背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。もしかすると、背が低いことはザアカイのコンプレックスで、それが彼を拝金主義に向かわせたのかも知れません。しかし、群衆は彼を嫌っていたので、誰一人として彼に場所を譲ってくれる人はいませんでした。

 そこで、ザアカイは先回りをして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言うのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。

 人々は、あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた、と言ってつぶやきました。しかし、素晴しいことがすでに起こり始めていたのです。

 ザアカイは立って、主イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
 イエスは、彼に言いました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」

 イエスさまに出会って、ザアカイは救いを得たのです。イエスさまの愛が、彼を変えました。彼は、イエスさまがどんな方か、また自分を愛してくださっていることが分かったのです。今や、ザアカイの価値観は一変しました。お金ではなく、主の内にこそ永遠に続く価値があることを彼は知ったのです。それゆえ、先ほどのような言葉が、彼の内から出てきたのです。

 人をキリストに近づけるのは、お金ではありません。心です。あなたの宝とするものが何であるかが、あなたの心を現しています。ザアカイは、その心をお金から主イエス・キリストに変えました。それで、主もまた「きょう、救いがこの家に来ました。」と言ってくださったのです。

 テモテへの手紙第一6章10節にこのようなみことばがあります。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。金銭を愛することは、ろくなことではありません。確かにお金は必要ですが、それが目的になってしまった時、大きく人生を誤ってしまうことを私たちは知っておきましょう。まことのいのちを得ることも、お金では買えず、ただキリストの恵みによることを忘れないでください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月14日水曜日

 神の心をわが心とする

 出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、40日40夜、山にいました。

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(31章18節)

 ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。

 しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)

 主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。

 敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。

 モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。

 こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記3章12、13節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。

 イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書10章37~39節抜粋)

 主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。

 このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。

 歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(16章9節)

 私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月7日水曜日

罪の赦しと救い

 罪の赦しということを考えると、それは人間にはできないことであると分かります。旧約時代には、罪の贖(あがな)いのためには、律法によって細かな規定が定められていました。罪過のためのいけにえは、雄牛の頭に手を置き、それをほふり、聖所の垂れ幕に血を七たびふりかけ、その血を祭壇の角に塗り、血を全部祭壇の土台に注ぎ、取った腎臓や脂肪、小葉を祭壇の上で焼き、火によるささげ物として煙にします(レビ記4章参照)。人々はこれを繰り返し行い、罪の贖いをしました。

 へブル人への手紙10章1~3節には「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(中略)かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」と書かれています。

 そして、イエスさまはこう言われたのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(5~7節)

 これは、イエス・キリストが受肉し、世に来られ、十字架の死によって、またそれに続く復活によって、私たち人類のすべての罪を贖ってくださることを語っています。御子イエスは、ご自分がご自分の肉によって、人類の罪を贖うという神のみこころを知った上で、世に来られ、苦しみと死と復活を通してそれを全うされたのです。

 そして、このように書かれています。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(12、13節)。罪の赦しは、イエス・キリストにおいて完成したのです。

 ヨハネの手紙第一には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1章9節)と書かれています。ですから、今や、どんな罪でも赦されない罪はありません。神の前で罪を言い表すだけで、すべての罪が赦されます。そして、恵みによって罪の生活から立ち直る力までも与えられるのです。

 けれども、ある方々は、自分のこの罪だけは決して赦されない、赦されてはならない、と思っておられます。しかし、どうか赦されることを信じ、受け入れてください。

 人は自分の罪を自ら償うことはできないのです。自分の罪を赦していただくために人は何を差し出すことができるでしょうか。何千年もの間、人類は律法に従い牛や羊をささげ、罪と格闘しました。しかし、誰一人として、罪を帳消しにできた人はいませんでした。罪は依然として残るのです。罪の前に人は無力です。ただ無条件に赦していただくより他はないのです。そして救い主(メシア)であるイエス・キリストだけが、罪を赦すことがおできになるのです。

 ヨハネの福音書3章16節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語られています。御子イエスさまは、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、義なる神と私たちの間を断絶していた罪の問題を、十字架によって解決してくださったのです。それは、神の愛とあわれみとによります。

 詩篇103篇にもまたこのように書かれています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(8~12節)

 私は、東が西から遠く離れている、というこの表現を、とても気に入っています。御子を信じる者は、その罪、咎、そむきから遠く離されているのです。東が西から遠く離れているほどに。

 罪の赦しのために神はどれほどの犠牲を払われたことでしょう。それらはすべて、神が用意し神が完成させてくださったものです。人が関わったところは一つもありません。ですから、それは「恵み」なのです。

 イエスさまに関して、ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り(ヨハネの福音書1章14節)、また「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(17節)と語っておられます。モーセによって与えられたのは律法で、私たちを救うことはできませんでした。しかし、赦しという恵みとまことは、イエス・キリストによって実現し、私たちを救いに導き入れたのです。

 ですから、この恵みにしっかりと立ち、イエス・キリストによる罪の赦しを信じてください。私たちは、十字架を信じることによって救われ、罪を告白することによって赦されます。そして、赦されたあなたの上に、神は豊かな祝福を与えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月30日水曜日

もし、あなたが本当に困っているのなら

 人生にはいろいろな事が起こります。例えば、突然見舞われた不治の病や思いもよらぬ事故。陰湿ないじめや、お金がないこと。夫婦間のすれ違いや、親しい人の死。そして戦争やききん等々。本当に人生には、特に最近は、予期せぬことがいろいろと起こっています。

 誰にも相談できないこと。解決の糸口が見いだせないこと。あらゆる面で行き詰まり、もし、あなたが本当に困っているのなら、その時にはイエス・キリストのもとに来てください。イエスさまの前にあなたの悩みを、また苦しみを打ち明けてください。その心を、イエスさまに知っていただいてください。死を考えるほど追い詰められているのなら、なおさらのことです。

 イエス・キリストまた神は、あなたを拒まれるような方ではありません。信者であろうがなかろうが、神はすべての人にとって神です。あなたを造られたあなたの父です。あなたを顧みてくださらないわけがありません。また、十字架の上で自分のいのちさえ投げ出して、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったキリストが、どうしてあなたを助けてくださらないことがあるでしょう。必ず、脱出の道はあるのです。絶望する中にも、神の解決はあるのです。神は、あなたの救いとなられます。そのことをぜひ知っていただきたいと思います。

 そして、困難にある時、神はそれを乗り越えられるように、私たちにまず慰めを与えてくださいます。聖書のコリント人への手紙第二1章には、このように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(中略)それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(略)その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(3節~6節まで抜粋)

 神は苦難を許されると同時に、慰めも与えてくださいます。これが人生の素晴らしい所です。世には「さばきの神」というイメージを持っておられる方は多くても、「慰めの神」を知る人は少ないと思います。しかし、先ほど挙げたコリント人への手紙第二1章では、「慰めの神」が描写されています。神は、苦しむ私たちを、ねんごろに慰めてくださるのです。苦難にある時は、神はご自身の「隠れ場」に私たちを連れて行ってくださり、ひそかに休ませてくださいます。

 顧みれば、イエスさまは、弱り果てた私を立たせてくださるお方でした。渇いた口に水を注いでくださるお方でした。マタイの福音書では、「いたんだ葦を折ることも無く、くすぶる燈心を消すことのない」お方だというふうに書かれています(12章20節参照)。真実の愛で私たちを愛してくださっています。

 そして、マタイの福音書では、イエスさまご自身こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(11章28~30節)

 これは、すべての人に向かって語られていることばです。そして、救いのことばでもあります。イエス・キリストを、自分の救い主と信じることが、真に人を安息へと導くのです。イエスのくびきは軽いのです。それゆえ、重荷をおろしてイエスさまの十字架の救いを信じましょう。問題もまた神であるイエスさまによる解決があります。

 イエスさまが、十字架によってなしてくださったことは、あなたの罪を赦すことです。あなたのうちの、自分を責める思い(それは罪から来ますが)、行き場のない問題、そのすべてを、イエスさまはあなたの代わりに担ってくださいました。ですから、今、イエスさまを信じ、イエスさまのもとに帰りましょう。

 神の愛は、イエスさまによって体現されているのです。そして、それは私たちから出るものではなく、神の恵みによります。キリスト・イエスの恵みによって私たちは、どのような状況の中にあっても、希望となる力を頂くことができるのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月24日木曜日

自分に酔いしれる

 高慢ということは、自分に酔いしれた状態であると思います。ルカの福音書18章の9節から12節にかけて、神は興味深いたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとり人はパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」
 パリサイ人は当時のエリートで、取税人は税を取り立て、しかも往々にして不正をして同胞から決められた以上に取りたてて私腹を肥やしていました。それで、罪人として皆に嫌われていました。一方、パリサイ人は皆に尊敬されていて、人々の上に立って先生と呼ばれていました。

 それゆえパリサイ人は、宮に行き、立ってこのような祈りをしました。「神よ。私はほかの人々をようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」

 これは、パリサイの誇りでした。こんなにも主に仕えている私というものに、並々ならぬ自負があったと思います。確かに週に2度断食をしたり、律法を落ち度なく行うことはなかなかできないことです。それを守り行っていることは、当然、自分を褒める思いがあったでしょう。地位もあり、人の上に立ったパリサイ人は、知らないうちに自分の行いに酔いしれてしまったのです。もちろん、なすべきことは忠実に行ったでしょうから、非難の対象とは言えないでしょう。しかし、自分を高くするあまり、人を裁く高ぶりが生じたのではないでしょうか。

 それは「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」という一文に表れていると思います。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」

 イエスさまは、言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 地位や働きによって、知らぬ間に自分に酔いしれてしまうということは、どの世界においてもよくあることです。一国の首相から企業のトップに至るまで、不祥事によって辞任するケースを私もたくさん見てきました。高ぶりは滅びの前ぶれなのです。後になって、後悔してももう元に戻ることはできません。いかに多くの人が高ぶりの故に人生を棒に振ったことでしょう。

 神もまた高ぶる者を退け、心のへりくだった者をいつくしまれます。心が低いということは、神の前の美徳です。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と語られました。(マタイの福音書5章3節)

 それゆえ、常にキリスト・イエスに救われたあの日のことを思い出しましょう。その日から神の前には何も変わっていないのです。教会が大きくなると教会の中でも、社会同様に地位や立場が与えられてくるでしょう。しかし、イエスさまに出会ったあの信仰の原点を忘れてしまうなら必ず、ずれてしまいます。最悪の場合は退けられてしまいます。

 私たちは、サタンの小さなほめ殺しの言葉によって、いとも簡単に自分に酔いしれてしまいます。しかも、なすべきことは行っているのですから、まさか自分が誇っているとは思いもしないのです。

 パリサイ人は自分が神に仕えていることを誇りとし、自分に酔いしれ、自分を義人とし、取税人を罪人であるとさばいてしまいました。これはもう、神の前では高慢という罪です。

 バビロンのネブカデネザル王は、神が彼を立て祝福していたのにもかかわらず、「この大バビロンは、私の権力によって(中略)私が立てたものではないか。」と言った瞬間、ただちに彼は宮殿から追い出され、野の獣とともに住むようになり、七つの時が過ぎるまで、捨て置かれました(ダニエル書4章29~32節参照)。彼もまた、高ぶりの一線を越えてしまったのです。

 神のあわれみを求めた取税人が、神の前には義とされました。それゆえ私たちは意識して、日々へりくだりを求め、低い心を求めていきましょう。

 「神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」(ペテロの手紙第一5章5節) 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月16日水曜日

ヨブと真珠

 ヨブ記のヨブは、いわれなき試練に置かれたことで有名です。多くの困難にある人が、ヨブのことを思い起こします。いわれなき試練というのを神は許されるのでしょうか。許されます。

 TLEA主催の白馬スネルゴイキャンプで、今や、100万人のフォロワーを持つインフルエンサーのあきand光一さんが、お話をしてくださいました。カイロプラクティックのクリニックを経営していた光一さんですが、ある時、家も財産もすべて失ってしまった、という事態になりました。まさに、ヨブ記のヨブに起こったことと同じではありませんか。

 その苦しみの年月は、7年にも及んだといいます。お二人は、ロサンゼルスを出てハワイに行き、そこで苦しい時を過ごしました。その時の事を語ると、光一さんは「困難にある人が、今いるかもしれませんが、必ずそこを抜けますから…」と涙ぐんで私たちを励ましてくださいました。

 その時、私も自分に許された困難な日々のことを思い起こしました。18歳の頃、私はイエス・キリストを信じ、翌年のクリスマスの受洗を楽しみにしていました。しかし、父からの許しが得られず、強行するつもりでいましたが、迷っていました。

 その時、重い病気になったのです。神経の病気で、ベッドに寝たまま動くことさえできませんでした。こんなにつらいなら自殺したいと思っても、窓のところまでも自分で行くことができないのです。父は心配して、「代われるものなら代わってやりたい」と言ってくれました。「じゃあ、病気が治ったら洗礼を受けていい?」と聞いたら、「受けていい」と許してくれました。私は、このために病気になったのだ、と自信満々になって、クリスマスの洗礼前には良くなって東京に戻れると思っていたのです。

 ところが、現実はそんな甘いものではありませんでした。完全に治り東京に再び帰るまでには2年かかりました。動けないこと、その中で、私は主に叫びました。受洗はどう考えても神のみこころです。また、病院では毎週の礼拝の恵みも受けられません。そんなことが神のみこころであるわけがないと思いました。完全に神から断たれたように思いました。何の罪を犯したのか自分を探りました。ヨブのように。しかし、ヨブと同じように答えは出ませんでした。

 東京の牧師は、イエスさまが羊たちを大きな手で囲んでいる絵はがきを送ってくださり、「このことを感謝してみてください」と書かれていました。そのご愛には本当に慰められました。けれども、私はこんなこととても感謝できるわけがない、と一蹴したのです。まだ、感謝に対して目が閉ざされていたのです。そして、相変わらず苦しい毎日を送っていました。

 ある日のこと、神さまが、私にその苦しみについて教えてくださいました。それは、あこや貝のことでした。あこや貝は、真珠を作る貝です。真珠を作るには、まずあこや貝に傷を入れそこに核となるものを押し込みます。すると、それが痛いのであこや貝は、自ら液を出して核を覆おうとします。そして、それが何年もかけて、真珠に育っていくのです。

 「あなたに許されたことは、これである」と神は言いました。「今は痛いが、この中で神は宝石のような真珠をやがてあなたに造ろうとしているのだ」と。もちろんこの一言で、すぐに私の悩みや苦しみが消えたわけではありません。しかし、19歳から、今60歳になって、私は確かに神のおっしゃる通りであったと思います。

 思いもしない試練が、突如あなたを襲うかもしれません。その理由を考えても分からないかもしれません。

 イザヤ書にこういうみことばがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(55章8、9節)

 神さまの計画というのは、私たちの思いを越えて、はるかに高いのです。

 ヨブは、神さまがどんな方か、試練を通して学びました。神は、ヨブに「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」と言いました(ヨブ記40章2節)。ヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(中略)それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と申し上げました(ヨブ記42章2~6節)。

 神は、その後、ヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福されました。今いわれなき試練にある方、どうか感謝してください。必ずそれが抜ける時が備えられています。先が見えなくても、必ず試練には終わりがあります。そして、試練を抜けると試練が許されたこと以上の祝福を必ず受けます。

 そこにはより優れた神さまの計画があるのです。ヨブは失ったものの2倍を受けました。しかしそれ以上に優れた祝福は、神を知るということではなかったかと思います。そして、これこそが神が与えてくださる真の祝福ではないかと私は思います。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/