2019年11月6日水曜日

 

 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい(マルコの福音書5章24節)
 これは、イエスさまが、18年もの間長血を患いご自身によっていやされたある婦人にかけられたことばです。この女性は、医者からひどい目に遭わされて、お金も底をつき悪くなるばかりの病状に、頼るはもうイエスさまのほかありませんでした。お着物にさわることでもできれば、きっと直る、そう信じて群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触りました。するとたちどころに血の源が枯れてひどい痛みが消えました。
 イエスさまもまた、ご自分の内から力が出て行ったことに気づいて、誰が私の着物に触ったのかと問われ、群衆を見回しておられました。女性は恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、自分に起こったことを余すことなく打ち明けました。それに答えてイエスさまは冒頭のことばをかけられたのです。何と慈愛に満ちたことばでしょう。
 さて、信仰とは何でしょう。ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。
 長血の女性が受けたのは信仰によるいやしでした。彼女は、きっと直る(報いてくださる)と信じてイエスさまの着物に触れたのです。そして信じた通りになりました。
 信仰はあやふやなものではありません。あなたが信仰を持って神に近づくなら、神は、必ずその信仰に報いてくださいます。そしてそればかりではなく、喜んでくださいます。
 信仰はあなたを勝利に導く一筋の光です。私たちもまた、信仰によって神に近づきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月10日号(第1067号)より転載—

2019年10月30日水曜日

罪の赦し

 私たちは、日々いろんな罪を犯します。それ故、イエスさまの名によって悔い改めることはとても重要です。どんな罪でも悔い改め、言い表し捨てるなら、あたかもそれがなかったかのような赦しを受け、祝福さえ頂きます。ヨハネの手紙第一に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1章9節)と書かれている通りです。
 一口に罪といっても、盗みから殺人までその内容は千差万別です。確かに人の目には、大きな罪小さな罪と区別されるべきものがあるでしょう。しかし、神の前には、罪は、あるかないかのどちらかなのです。神は義なるお方で、その聖(きよ)さはどんな微小の罪であってもはじきます。聖なる方は、決して罪と相いれることはありません。こういう訳で人が神に近づくには贖(あがな)いが必要であり、私たちの先祖は、救い主であるイエスさまが来られるということを長い間待ち望んでいました。
 そして、事実イエスさまは、およそ2000年前に、人と神の仲介者として世に来られました。私たちのすべての罪を身に負って、十字架の死によって私たちを贖い、また3日目に復活を遂げ、救いをなし遂げられました。
 ただ信じるだけでよいのです。神さまの前には、今や赦されない罪は一つもありません。どんな罪でも悔い改めるなら完全に赦されます。これこそ神が恐れられるゆえんなのです。マルコの福音書でイエスさまはこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(2章10節)
 罪を赦す権威、これこそイエスが救い主であることのしるしです。罪の奴隷であった私たちですが、今やイエスにあって神の子とされたのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月3日号(第1066号)より転載—

2019年10月23日水曜日

 

 先日、夫が車のオイル交換へ行ってきました。車は製造から20年近くたつので、当時最高とされていたエンジンオイルの規格は、いまでは最低以下で、もうその規格のオイルは市場には出回ってないそうです。旧車の愛好家たちにとっては、結構シビアな問題だそうです。
 自動車は時代とともに大きく発展し、同じ「車」であっても、今と昔では大きく違います。それ故、エンジンオイルに関しても、今のオイルを昔の車に使うと不具合が生じるそうです。夫も、時代の違いを痛感する、と言っていました。
 聖書でも、時代や世代は一つの区切りとなっています。イスラエルの民はモーセに従って、エジプトからカナンの地に向かって出発したのです。
 しかし、民にカナンの地を受け継がせたのはモーセではなくて、モーセの従者ヨシュアでした。
 というのも、出エジプトしたイスラエルは神に聞き従うことをせず、不信仰で度々神を怒らせました。そしてついに神はカナンの地に入らせないと祖先たちに告げられたのです。そして、そればかりではなくモーセにもまた、「あなたもそこに、入れない。ヨシュアがそこにはいるのだあなたがたが、略奪されるだろうといったあなたがたの幼子たちがそこに入る」(出エジプト記11章参照)と宣告されたのです。
 こういう訳で40年間民は荒野をさまよい、ヨシュアとカレブ以外の者たちは死に絶えてしまいました。その結果、次の時代の者たち、成人した幼子たちがカナンを受け継いだのです。
 世界的に新しい時代が始まりました。聖書的にみれば「終末」と言われる時代です。しかし、今までにない大きな救いが現される時代です。この働きを担うのが私たちです。神を恐れかしこみ、それぞれの使命に向かって進んでいきましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月27日号(第1065号)より転載—

2019年10月16日水曜日



 愛はキリスト教の神髄です。神は愛です。神を抜きにして愛はなく、愛は神そのものです。
 皆さんは、愛といえばどういうイメージを持ちますか。日本語では、愛は愛というその一言でまとめられます。しかし、他言語では男女間の愛、友愛、神の愛とそれぞれが違う言葉が充てられています。実質が違うので言葉が違うのです。
 神の愛とは、イエス・キリストの生涯そのものです。ヨハネの福音書に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)と書かれています。神は世にある私たちを愛されたが故、ひとり子なるイエスさまを私たちに下さいました。大きな犠牲です。しかし神はそうすることをみこころとされたのです。そこに、私たちへの神の愛が明らかにされています。
 しかし、その愛は目をそむけたくなるような厳しいものであったのです。イエスさまは王であるにもかかわらず、誰よりも虐げられました。神は、子羊イエスさまの上に私たち人類の全ての罪を置かれ、イエスさまは十字架で死なれました。そして、贖(あがな)いの完了のしるしとして、3日目に死からよみがえりを果たされました。
 その愛は決してきれいなばかりではありません。愛の中の愛、神の愛であっても、イエスさまを思い出してください。いばらの冠をかぶらされ、着物を取られ、むち打たれました。何でこんな苦しみを耐えられたのでしょう。私たちのため、私たちが生きるため、救われるために、イエスさまは十字架を忍んでくださったのです。
 愛はその本質において自己犠牲を伴います。痛みのない愛はありません。傷ついて、涙して、愛を学んでいくのです。負けたように見えるかもしれない。しかしそうではありません。十字架の主を仰ぎ見ましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月20日号(第1064号)より転載—

2019年10月9日水曜日

救 い

 世には多くの宗教があり、救いや解決をうたっています。しかし、それらの宗教には何の確証も無く、かえって弱さに付け込んで、食い物にしているように私には見えます。
 以前、救いに関して図を書いて教えられたことがあります。天と地があって、地から天に向かって伸びている幾本もの柱があります。この柱とは人間の「努力」です。一番長い柱も天には届くことができませんでした。
 次いで見てみると、天から地上に差し伸べられている一本の柱があります。この柱は「救い」といいます。この柱に応答して登るなら天に行くことができます。
 救いは努力で手に入れられるものではありません。確かに世には苦行や物断ちなど、お勤めを語る宗教は数多くあります。しかし、それら宗教の内には救いを約束するものは一つとしてないのです。
 使徒の働き412節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と書かれています。
 この方とは、イエスキリストです。イエスさまは天から来られました。先ほど語ったように、天から地へと差し伸べられた一本の柱、それはイエスさまとその福音です。
 イエスさまは、罪の奴隷である私たちを愛し憐れみ、死に打ち勝つ救いをもたらすために時至って世に来られました。そして、その十字架の死を通して私たちを贖(あがな)い、3日目によみがえりを果たされ、ここに福音を打ち立てられました。
 あなたもまた、このイエスキリストを信じ、救い主として心にお迎えするなら、救われます。神さまのみこころはあなたが救われることにあります。救いはキリストにあります。ただ信じることによってすべてが全うされます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月13日号(第1063号)より転載—

2019年10月2日水曜日

アブラハムの信仰

 へブル人の手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。アブラハムは、まさにこの信仰を持つ人物でした。
 ローマ人への手紙418節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という1節があります。これは直接にはアブラハムのことを語った言葉です。アブラハムはおよそ10
0歳になって、妻のサラの胎が死んだも同然であるのにもかかわらず、神が約束された男の子、イサクを受けると信じました。望み得ないときに信じたのです。そして約束通り、イサクが誕生しました。
 その後、アブラハムは試練に入ります。神が約束の子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう語られたのです。アブラハムへのすべての約束は、イサクに継承されるものであったので、イサクが死んだら約束は成り立ちなくなります。しかし、これを聞くとアブラハムは直ちにイサクを伴い、示された場所であるモリヤの地の山へ向かいました。そこで祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛りその上に置きました。そして、刀を取って今まさに屠(ほふ)ろうとしたその時でした。
 「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子さえ惜しまないでわたしにささげた」主の使いが天から彼を呼びました。
 アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることができる、と考えたのです。それで彼は死者の中からイサクを取り戻しました。私たちもまた、信仰によるなら同じことが起こります。アブラハムの信仰にならいましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月6日号(第1062号)より転載—

2019年9月25日水曜日

病のいやし

 先日、親しい知人が他界しました。大腸がんでした。何でも、手術できない所にあるがんであったということで、治療しようがなかったと聞きました。治癒を望みえない治療はつらかっただろうと思います。「これじゃあ棺おけに足を半分入れているようなものだよ」と本人は冗談めかして笑っていましたが、迫りくる最後にお1人で戦われたその胸中はいかばかりであったでしょう。
 当然のことですが、世の中には医者が治せない病がまだまだ多くあることに気づかされます。確かに、多くの医学者の研究によって医療は日進月歩を遂げておりその努力には敬意を表します。しかし、医学は万能ではないのです。本当の意味ではいやしは神の領域でしかない、と私は思っています。いやしは神のものでありキリストに属するものです。そして、その根拠はキリストの十字架の贖いです。
 イザヤ書53章に「彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)という一文があります。これは、神のいやしの根拠としてしばしば引用される聖書のことばです。私たちのいやしの根拠はイエスさまの十字架でのみ苦しみにあり、その打ち傷にひきかえて私たちにいやしが与えられるのだというのです。
 また、詩篇103篇3節には「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」と書かれています。赦しといやしには密接な関係があります。
 まず、神さまから赦されること、それが、いやしの始まりとなります。イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであったと信じるのなら、その人は赦しを得ています。そして、多くの縛りから解放され、病からも解放(いやし)されます。イエスさまを信じ、すべての点で幸いと健康を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月29日号(第1061号)より転載—