宗教
今、若い子たちの間で、一種の宗教ブームが来ていると言われています。思い起こせば、15歳の時に、母の代理として某新興宗教の総本山に行かされたことがあります。当時の私は、宗教を馬鹿にして「いわしの頭も信心から」という言葉から、何を信じても大差ないんだ、信仰心こそが尊いんだ、という考えを持っていました。
それで、私も悩みを持つ身、これを機会にこの宗教でいいから信じてみようか、という気になりました。まったくの初心者は、それでも3千人ほどいました。そして、その5日余りの間に、私は劇的な変化を遂げました。椅子の上に立って、数珠を上げて繰り返し叫ぶのですが、私も皆とともに、数珠を上げて大声で叫んでいました。キリスト教で言えば、アーメンというタイミングでしょうか。特別な熱狂がありました。
また、宗教的所作を一から教えられました。ご本尊に向けて足を向けてはならない。ご本尊とその部屋は尊い。だから、ソックスを履いてはならない、などと教えられるといかにも宗教的だと驚きました。しかも、真面目に、同世代の者が心からそれを行っているのを見ると、言い知れぬ興味が湧きました。何でここまで信じられるのだろう。私と彼らは違う。何が違うのだろう、と思うに至ると、かえってもっとこの宗教を知りたいと思うようになりました。
お勤めばかりでなく、ディスコで楽しむ機会があったり、日の出に向かって、題目を唱えて行進するということもありました。私自体は、おどろおどろしい襷(たすき)を身に着けるのは嫌いでしたし、数珠は宗教的で持つにも抵抗がありました。あくまで母の代理で来たのですが、熱狂させる力にのまれてしまいました。
それは、宗教の力、宗教の霊であったと思います。それに引かれて、多くの者が今、新興宗教・他宗教に足を踏み入れているのではないでしょうか。信じる力、信じることによる帰依の力、こういうものが多くの人にとって魅力となっているのではないでしょうか。宗教によって縛られることさえ、ありがたいことだと思っているかもしれません。
しかし、それでよいのでしょうか。信じ熱狂することは、人生に強い刺激を与えますが、信じることにおいて大切なのは「何を信じるか」ではないでしょうか。救いのない信仰は、命の終わりとともに散っていきます。「いわしの頭も信心」からではなく、信じるに足るべきものを信じることこそ永遠のいのちに関わるのです。
私たちクリスチャンは、「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。そして、罪が赦されたことを証しして、死者の中から3日目によみがえられたこと。40日間弟子たちとともに過ごされ、目の前で召天されたこと」を信じています。そしてやがて、世の終わりには、おのおの生前になしたところにしたがって、さばきを受けること。しかし、イエス・キリストを信じた者はそのさばきから免れることを、聖書に書かれた通りに信じています。
主イエス・キリスト以外に救いはありません。聖書にも「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒の働き4章12節)と書かれています。
たとい宗教の熱狂があったとしても、救いがなければそれは花火のように一時を照らす光です。しかし、イエス・キリストのうちには、永遠のいのち、まことの光があります。真理は、幾つもあるものではありません。真理は一つ。イエス・キリストご自身なのです。
私が新興宗教で渡されたお経は、内容が支離滅裂でした。どこかの王国の話のようですが読んでもつじつまが合いません。そこで質問すると、お経はありがたいものなので理解するものではありません、と諭されてしまいました。でも、これでよいのでしょうか?
非常に宗教的な答えですが、バイブル(聖書)は、誤りなき神のことば、いのちのことばです。多くの神の奇跡がこの神のことばを通して現されています。キリスト教には、真理があるのです。神のことばは、いのちなのです。聖書には読んで分からないことなど書かれていません。
どうか、宗教ではなく、真理に来てください。熱狂ではなくキリストとの出会いを求めてください。主イエスが与えてくださるのは「救い」です。それゆえ、聖書を読んでくださるようお勧めいたします。神のことばは、静かにあなたに触れ、あなたに生きる力を与えるものだからです。あなたを変える力、不可能を可能にする力が、神のことばにはあります。
MIKOE NEWSから転載」 2025年7月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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