心
先日、白馬キャンプ会場で、のどの具合の悪そうなM牧師に貼り薬を差し上げたところ、講壇から「愛を感じました」とおっしゃられたのを聞いて、新鮮な驚きを感じました。人の愛を感じやすい方なのだな、と。これはM牧師の美徳でしょう。
初めてスプレンダーがデビューした時、私は正直なところ恥ずかしかったです。音楽を専門に学んだわけでもなく、ダンスを学んだわけでもない、その人が前に立って導いているのです。ドキドキして、正視できませんでした。しかし、今や神はⅯ牧師を30万人の前で指揮を執り、躍る者としてくださいました。また、若い頃、ディスコで鍛えたという踊りも堂に行ってきて、専門家の那須さんからも、かっこいいとお褒めを頂きました。神がM牧師を本当に愛しておられるのを感じました。M牧師が神さまを「天の御国のお父さま」と日々呼んで、愛しておられるからでしょう。子どものように。
マタイの福音書5章3節に有名なイエスさまのおことばがあります。それは「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」というものです。私たちは、「心の貧しい者」でしょうか。この「心の貧しい者」という語には二つの意味が考えられます。一つは、オーソドックスな解釈で「心の豊かさに飢え渇いている者」という意味です。心の豊かさに飢え渇く思いを持つ者には、神が応えて豊かに心を満たしてくださるという解釈がなされます。
しかし、今回、私は文字通り「心の貧しいものは幸い」と読んでいきたいと思います。心に何にも持たない貧しい人と、心に多くの要らないものを抱えて、豊かなのか自由が利かないのか分からない人がいます。神はへりくだった者を愛し、心の貧しさを愛されます。それゆえ、パリサイ人、律法学者を嫌われました。彼らのしきたり、言い伝えも憎まれたことが聖書に書かれています。彼らは、イエスさまの前に多くのものを持ちすぎたのでしょう。
私たちの心には、たくさんの多くの要らないもので満ちてはいないでしょうか。体裁、プライド、人との比較、ねたみ、高ぶり、理屈、言い訳、うそ・いつわり、金への欲求、暮らし向きの自慢、自分を義とする思い、損得勘定、人からの称賛を求める思い、持ち物の自慢等々、挙げればキリがありませんが、心は世のものでいっぱいです。
それに引き換え、イエスさまが愛された子どもたちはどうでしょう。「イエスさまのこと、好きだよ」これだけでイエスさまのもとへ行って、そばを離れようとしなかったのではないでしょうか。何の計算も思惑もありません。
罪人とされた遊女や取税人も、イエスさまは彼らを愛していました。彼らは罪の赦しを信じ、それを疑うことがありませんでした。心に何の偽りもたくらみもなかったので、イエスさまもまた、彼らを愛されました。彼らもまた「心の貧しい」者であったのです。人々は彼らの陰口を言い、罪人扱いをしましたが、それが故に彼らの心は主の前にへりくだっていたのです。良く思われようとか、自分を誇ろうとか、そんなもののない「貧しい」心を主は愛されたと思うのです。
泥のついたシャツのまま飛び込んでくれる子を神さまは愛してくださるのです。私たちは罪人です。イエスさまは救い主です。ありのままのあなたの、そのままの姿でイエスさまに帰るなら、イエスさまはあなたを受け取ってくださいます。
それゆえ、肥え太った心こそ実は問題です。パリサイ人、律法学者のように心を太らせてはなりません。彼らはイエスさまを十字架にかけて殺してしまいました。ねたみからそうしたと聖書には書かれています。こころが肉で脂ぎっていると、世のもので豊かであると、決して主を見ることができませんし、その救いを知ることもできないのです。
いかに「心の貧しい者は幸いで」しょうか。こころが貧しくなければ、天の御国に入れないばかりでなく、神に敵対する者となってしまいます。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」。これは、サウルの後の王に着く者を定める際に神がサムエルに語った有名なことばです。」(サムエル記第一16章7節)
神の前に価値あるものはへりくだった心です。すべてはここにかかってきます。貧しいへりくだった心であれるよう、私たちも心の不必要なものを手放していこうではありませんか。
主があなたを満たしてくださるために「心の貧しい者」でありましょう。「心がいっぱい」であると、主のものを受ける余地すらもはやありません。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇17節)
MIKOE NEWSから転載」 2025年7月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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