2025年8月6日水曜日

 教会のとりなしの祈り

 先日、親しい方々と近況を分かち合いました。私の順番が来た時、87歳になる母のことを話しました。少し認知症的なものを感じる状態です。よく忘れるし、毎晩読んでいる詩篇においても、以前は感想を述べていたのに、黙っていることが多くなりました。分かっているのかどうか、判断に苦しみました。また、急に怒りっぽくなったり、他にも冷蔵庫を開けて食物を取ることもしていないそうです。老いは誰もが通る道。でも、いつまでも壮健でいてほしいものです。最低限の生活が自力でできるよう求めました。

 すると何名もの方が尋ねてくださり、「お母さんはどうですか?」と声を掛けてくださったのです。「お母さんにはお世話になったから」と言ってくださる方もいて、母のことを心にかけてくれました。そして、祈りをささげてくださったのです。

 びっくりしたのは私です。それ以降、母の認知の症状がはっきりと良くなったのです。詩篇を読むと、以前のように、「ほんと、詩篇には力があるわね」と言い始めたのです。「このことについてはどう思う?」という問いに関しても、「こうしたらどう?」という答えが返ってくるようになりました。

 これは、とりなしの祈りの力、教会の祈りの力であると思います。神は、私たちの祈りを地に落とすことはされないのです。必ず、祈りは、芽が出て成長し、実を結ぶのです。母の一件を通して私は祈りの力を学びました。

 これは、奇跡だと思います。とても思いもできなかったほど明瞭な意識が与えられているのです。祈りが奇跡を起こしました。教会の祈りには、大きな力があるのです。

 使徒の働き12章には、興味深い記述があります。ヘロデ王がヤコブを殺した後、次にペテロを捕えて牢(ろう)に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させました。(中略)こうしてペテロは牢に閉じ込められていて、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていました。

 「ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 そして、御使いが、『帯を締めて、くつをはきなさい』と言うので、彼はそのとおりにした。すると、『上着を着て、私について来なさい』と言った。

 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

 そのとき、ペテロは我(われ)に返って言った。『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。』

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(使徒の働き122節~12節)

 聖書の中でも、これほど教会の祈りが聞かれた例は特筆されるべきものでしょう。教会のとりなしの祈りを通して、神は御使いを送り、奇跡の手をもって、祈られていた通りに、神はペテロを助けられたのです。

 祈りには力があります。祈りは神の手を動かします。また特に、教会の信者たちが心を一つにして祈るその祈りは必ず応えられます。祈りは気休めなどではありません。奇跡が起こるのです。祈りは強力な確かな武器なのです。祈りが満ちる時、御使いさえも差し向けてくださるほど、神は私たちの心からの祈りと願いに応えてくださるのです。

 あなたのとりなしの祈りも、必ず聞かれると知ってください。それゆえ、信じ祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年8月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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