2024年7月17日水曜日

岩の土台・砂の土台

 試練が来ると、私たちの土台が試されます。マタイの福音書7章には、二つの家のことが書かれています。一つの家は岩の上に建てられた家で、もう一つは砂の上に建てられた家です。外から見た場合、この二つは何ら変わるところがありません。

 ところが、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、岩の上に建てられた家は、びくともしませんでした。でも、砂の上に建てられた家は倒れてしまい、しかもそれはひどい倒れ方をしました。

 イエスさまは、この両者の違いは、主のことばを聞いてそれを行うか行わないかの違いであるとおっしゃいました。神のことばを土台にするか否かでこれほどの違いがあるのです。いうまでもなく試練は、私たちの土台が試される機会です。付け焼き刃で信仰を持とうとしてもそんな簡単にいくものではありません。日々の信仰生活の中で神のことばに聞き、それに従っていたかどうか、はからずもそれが問われてくるのです。

 同様な記事がコリント人への手紙第一3章にも見受けられます。私たちの人生のことなのですが、私たちはイエス・キリストという既に据えられた土台の上に、それぞれが、金、銀、草、わらなどでそれぞれ建物を建てます。そして、やがて主の日が来、火をもってそれらの建物は試されます。もし、建物が残るならその人は報いを受け、建物が焼ければ、損害を受けますが自分自身は、火の中をくぐるようにして助かる、と書かれています(1015節参照)。いずれにしても、建物の真価が試される日というのが必ず来るのです。

 一人一人が、人生という建物を建てます。しかし、その良し悪しは決して見た目では分からない、これが私たちにとって難しい所です。後の日に、火が真価を試すのです。また、試練の大水や大風が吹き付けてくると、その時、何を土台としていたかが明らかにされます。

 先日来、私はある悩みの中に置かれています。その中で私は自分の土台を見せられました。思っていたより遥かにもろかったです。というのも、神のことばがあったにもかかわらず、あまりにも状況が厳しいので、恐れに支配され、神のことばを信じるより現状に右往左往されました。つまり私は、自分という砂の上に土台を置いていたのです。神により頼むということを聞いてはいましたが、真に悟ってはいなかったのです。

 揺るがないもの、それは神でありそのことばです。イザヤ書にも「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(408節)と書かれています。たとえ天地が滅びても神のことばは立つのです。永遠に変わらない神のことばを土台とすること、これが岩の上に家を建てるということなのです。それを神は教えてくださいました。実に神は、私たちの戦いを戦ってくださるお方です。何が起こっても恐れるに足りません。

 皆さんは人生の土台にどちらを選びますか。どうか神と和解し、この岩なるキリストの上にあなたの人生を建て上げてください。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年7月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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