2024年2月29日木曜日

聞く耳、悟る心

 聖書を読んでいると、多くの所で「耳のある者は聞きなさい」とか、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」ということばを目にします。耳のあるとはどういうことをいうのでしょうか。

 マタイの福音書13章は種蒔(ま)きのたとえとしてよく知られています。イエスさまが湖のほとりに座っておられると大勢の群衆が集まってきたので、イエスさまは舟に移り、浜に立っている群衆に向かって教え始められました。それが種蒔きのたとえです。その時、主イエスは多くのことを彼らに、たとえで語り聞かされました。

 弟子たちは不思議に思い「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか」と聞きます。するとイエスさまは「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。私が彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです」(1113節)とお答えになりました。

 これを読んで、恐ろしいなと思いました。確かにその通りで、悟る心がないと神のことばはその人から、知らないうちに消えてしまいます。こうして、自然とより分けがなされてしまいます。神を第一とする心がない所には、神の声は聞こえません。その心は悟らず、何も得ることなく滅びへと進みます。そして、神によっていやされるその機会を自ら失ってしまうのです。

 神のことばは霊です。そこには力がありいのちがあります。私たちに永遠のいのちを得させるのも神のことばです。神のことばは、信じることによって強力な力を発揮し、一つとして地に落ちず、必ず神の実を結ばせます。しかし、聞いても聞けず、結局ことばが素通りして何もなかったというケースは実に多いです。聞く耳、さらに言えば悟る心がなければ、決していのちのことばである神のことばを受けることができません。

 今、世界は大きな戦争に向かっています。イエスさまが語られた世の終わりのしるしが至る所で現れています。にもかかわらず、実際戦場にいない私たちは覆いがかかったような状態でいます。あたかも眠っているかのようです。しかし、今の時こそ、聞く耳、悟る心を働かせる時なのです。

 ローマ人への手紙1311節に「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」と書かれています。主イエスの再臨の時は近いのです。悟る心を持って耳を傾けるなら、この時にも自分がなすべきことを知るのです。

 神のしもべとして、神の心をわが心として働く時が来ています。主に、聞く耳と悟る心を求めましょう。神はすべてをあわれもうとしておられるからです。私たちは、目を覚ましていましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年2月22日木曜日

いやしの賜物

  イエスさまは、その宣教の中で多くの人をいやし、また悪霊からの解放をなしておられます。いやしにはさまざまな方法が取られ、特にマルコの福音書16章でイエスさまは、天に上げられる直前にお弟子たちにこう言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」(1718節)

 今回は、私に起こったいやしの働きをお分かちしたいと思います。いやしは、さまざまなやり方で働きます。特に最近では、礼拝の中で知恵知識のことばによって今まではなかったようないやしの働きが起こっています。私も未病のような病が礼拝ごとに次々にいやされてゆくのを体験しています。とともに、手を置くということで起こった賜物としてのいやしについて事実を書き記したいと思います。

 18歳の時に私は、筋力低下と不明熱で半年ほど郷里の大学病院に入院したことがあります。最終的には不明熱は、不明熱に効くという薬があるのですが私には効きませんでした。その頃私は学生で、東京のM教会で救いにあずかったばかりでした。M教会の牧師先生は、いやしの賜物を受けていて、多くの人が牧師を通して神のいやしにあずかっていました。そのことを聞いていたので、私も祈っていただきたいと思いました。でも、東京と四国はあまりにも離れていて、しかも入院中なので自由に祈ってもらえそうにもなく、どうにかならないかと思案しました。

 結果、私の妹が私の代わりにM教会に行き、私の代わりとなって、牧師に祈ってもらうということになりました。牧師は、病状を聞いた上でいやしの祈りをしてくださり、特に妹の右の手を祈ってくださり、その手を私に置いて祈るように指示を受け、帰ってきました。

 すぐさま妹は病院に来て、祈られた右の手を私の上に置いて、いやしを祈ってくれました。すると、聖霊が働かれ、その場で熱が引きました。こんな方法で、私はいやしを受けたのです。驚きました。

 さらに驚いたのは、それから23年後のことです。父が、食道静脈瘤(りゅう)破裂を起こし吐血し危篤となった時です。止血しないと命に関わります。母と妹そして私の3人で父の上に手を置いて祈りました。同じ姿勢で祈るのはきついので手を動かそうとすると、父が妹の手を握り放そうとしないのです。どうしたのか聞くと、妹が手を置いた所はそこだけ不思議に痛みがなくなるというのです。キリスト教に反発していた父ですが、手を置いてくれと願うのです。その時、私はM教会の牧師が妹の手を祈ったことを思い出し、いやしの賜物が今なお働いていることを目の当たりにして、驚きました。

 福音書を読むと、主はあらゆる方法でいやしをなしておられます。いやしを求めた全員がいやされたという記述もあります。神はあわれみ深い方なので、病に苦しむ者を捨て置かれることがありません。救ってくださるのです。イエスさまなら、あのイエスさまなら、私の病をいやしてくださる、こう信じて、イエスさまの衣に触れた女性は瞬時にいやされました。イエスさまは自分の内からいやしの力が出ていくことを知って、そのことを知ったのです。神のいやしにはこうしなければならない、というような高いハードルは一切ありません。

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年2月14日水曜日

信仰、その大いなる奇跡

 信仰は行いである、と語った人がいます。まさにその通りです。ヤコブの手紙2章でも「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」という一節があります(17節)。信仰は行いとともに働くものなのです。

 有名なところでは、ペテロの水上歩行が挙げられます。マタイの福音書14章で、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいてこられたのを見たペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言います。イエスさまは、「来なさい」と言ってくださいました。そこで、ペテロは舟を出て水の上を歩いてイエスさまの方に行きました。奇跡が起こったのです。

 もし、ペテロが信仰を持たなかったら、行いによって示さなかったら、何の奇跡も起こらなかったでしょう。ただイエスさまが湖の上を歩いて舟に来られた、それだけのことで終わっていた話です。しかし、信仰を用いたことによって、ペテロも湖の上に立ち、奇跡が起こりました。そして、そのことによって神の栄光が現されたのです。

 ザンビアで孤児院の働きをしているAさんは現地の活動の中で、学校設立のビジョンを受けました。何の後ろ盾もない中、信仰を唯一のよりどころとして働きに踏み込んだところ、真実に神の手が動きました。スラムに小学校ができ、卒業生が出て、先日は中高生を収容する新しい建物の建築が完成し、そのお披露目の会が開かれました。もし、このようなビジョンを信仰によって受け取る人がいなかったら、土地も建物も孤児たちも、何もないままであったでしょう。

 信仰は種です。まけば必ず刈り取りの時が来ます。ところが、はなからそれを信じていない人は種をまきません。まかない所には、何の神のわざも起こりません。奇跡を見ることもなく結ぶ実もありません。信仰とはこういうものなのです。しかし、たった一人でも信じる者がいるなら、神はその一人の信仰を通して驚くほどの奇跡のわざを現してくださいます。

 とはいえ私は、やみくもに信仰を持て、信仰を用いよ、と語っているのではありません。それは、信仰の歩みというよりも心臓の歩みです。思い込みと信仰は違います。祈りの中で幾度も確認を取り、できることを考え、その上で本当に神から来ていると分かったものに対して、信仰の踏み込みをなすのです。すると、ペテロが水の上に立ったように、ありえない奇跡が起こるのです。今のこの世においても、起こります。

 どれほど大きな山であっても、勝ち目のない戦いのように見えても、主が共にいてくださるなら、どんなことでもできないことはありません。エリヤはたった一人で、450名のバアルの預言者に立ち向かい勝利しました(第一列王記18章参照)。信仰は奇跡を生むのです。

 信仰を使わないと現状のままです。しかし、信仰を用いるなら驚くべき神の計画とその成就を見ていきます。私たちが信じること、そしてそれが答えられることで、神は栄光をお受けになります。信仰によって歩みましょう。神は、あなたを信仰の勇士として用いたいと願っておられます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年2月7日水曜日

お金はどこまで必要か

 先日、最近の試算では老後の蓄えは1人につき2千万円必要だと発表されました。これを聞いてある者はあわてて仕事を増やしました。また、ある者ははじめからお呼びではないと諦めムードです。お金はある人にはあるのでしょうが、無い人にはとことんありません。65歳からは老齢年金が支給されますが、多くの人はそれだけではとても食べてゆけないと言います。だから、働けるうちに2千万円用意しておきなさいというのです。世知辛い世の中になったものだと思いませんか。

 お金って何でしょう。時代に応じてその姿は変容しましたし、これから先も変わってゆくものだと知っておきたいものです。江戸時代には、お米の収穫がお金の働きをしていました。何万石の大名という言い方は米の収穫量を示しています。並行して、日本では金(きん)が採れましたから大判小判などがまさにお金として使われていました。それから、紙幣の時代になり、現代では、買い物の際に通用するポイント、電子マネーが、紙幣外で使われ始めています。また、国ごとにその国のお金(貨幣)があって、私たちは両替して使用しているのですが、いちいち面倒であり、政情によって大きく価値を落とすこともあるでしょうから、そんな必要のない、世界レベルの通貨がこれから出てくるように思います。多分それは、紙幣という形ではないものとなるでしょう。

 確かに、今の世で一番頼りになるのはお金かもしれません。しかし、しょせんは紙であることを忘れてはなりません。紙をお金として成り立たせているもの、それが別の媒体を選ぶなら、いともたやすくお金はただの紙に返ります。

 戦後、預金封鎖という出来事がありました。国を立て直すための特例で、銀行預金も課税対象となりました。財産税法による高い税率によって、一部の高額預金者は、銀行に預けたお金を最大90%まで国に差し押さえられ、実質お金は大きく目減りしました。銀行に預けたから大丈夫という常識が覆えされたのです。お金は気まぐれで、荒ぶる馬のようです。お金を管理することは簡単ではありません。そして神は、任されたお金を私たちがどう使うか見ておられます。

 ある年配の女性が孤児院の働きのために全財産をささげることを申し出た時、もう少し熟考するよう語ったスタッフに対して、彼女は「私は自分の信頼の対象をお金から神へと変えたことに一つの後悔もしておりません」と語りました。

 これは、真理を突いた言葉です。そして素晴らしい告白です。お金にではなく神に信頼する、このような心から出たささげものを神はどれほど喜ばれたことでしょう。その信仰に報いてくださらない訳はありません。

 ルカによる福音書12章でイエスさまは興味深いたとえを話されました。ある金持ちの畑が豊作でした。作物を蓄えておく場所がない、と思った金持ちは倉を大きく立て直してそこにしまっておこうと考えます。そして、自分のたましいに言うのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。しかし、神は金持ちに言われます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか

 「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」。イエスさまはそう言われました。私たちは、神の前に富むことを教えていただきましょう。そしてまた、神さまが養ってくださるという信仰を持ちましょう。老後を支えるのはお金ではありません。神です。主はすべてをご存じで私たちを豊かに養ってくださいます。

 生活をしてなお余る財があるなら、そのことを感謝してそれを神にささげましょう。神の前に富むとはこういうことを言うのです。2千万円のお金は本当にあなたを救うのでしょうか。果たしてそこまで世があるでしょうか。時代は変わってきています。主に身を避けたほうがお金に頼るよりはるかに確かです。神の前に富むこととは、惜しみなくささげることであり、それはあなたにとって永遠の誉れとなって、天に豊かな実を結ばせます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年2月1日木曜日

パウロのとげ

  長年人生を歩んでいると、問題を持たない人は1人もいない、ということがだんだん分かってきました。あの人もこの人も、口にこそしないですが、解決に悩む問題を抱えています。そして解決に至るまでの長い忍耐を余儀なくされています。子どもでさえも例外ではなく、子どもには子どもなりの切実な悩みがあります。

 後に、キリスト・イエスの使徒となったパウロは、非の打ち所がない経歴の持ち主でした。生まれながらのローマ市民で、ガマリエル門下、エリート街道まっしぐらで来た青年です。このような人物なら悩むような問題はないだろうと人は思うかもしれません。そんな彼にもし、悩むような問題があるとすれば、それは近頃起こってきたイエスとその教えでした。これに反発したパウロはイエスを信じる者を憎み、老若男女を問わず激しく迫害しました。

 ところが、ダマスコまで来た時、突然天からの光が彼を照らしました。パウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」という声を聞きます。「主よ。あなたはどなたですか」と言うと「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とお答えがありました(使徒の働き26章参照)。

 パウロは主の顕現にあずかったのです。そして、ここから彼の人生は一変します。パウロは迫害者どころかキリスト・イエスのしもべとなって十字架を負うようになりました。パウロがいかに主のために苦しみに会ったのかは、コリント人への手紙第二11章に書いてあります。ユダヤ人から39のむちを5回も打たれ、石打ちに会い、投獄され、難船に見舞われ、一昼夜海上を漂い、いろいろな難に会い、労し苦しみ、眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、裸でいたこともあり、死に直面したことは数え切れないと言います。

 パウロはそこから、自分の弱さとそこにある神の助けを学びました。同12章でパウロはこう言いました。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです7節)。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました8節)。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう9節)」

 肉体のとげが何であるのかは、聖書には言及されていません。しかし、それはパウロが高ぶることのないために許されていることは確かです。パウロはこのとげが取り除かれるよう3度も神に求めました。しかし、神はお許しになられなかったのです。なぜでしょうか。それは、一つには神の栄光を盗むことのないためです。そして二つ目は、神は弱さを土台として働かれるからです。私たちは、神という素晴らしいお方を上にお乗せする「土の器」、あるいは「ロバの子」なのです。中心は神であり、私たちは、神の栄光の現れの妨げになってはならないのです。そのために、神はとげを、弱さを、私たちに許されるのです。

 しかし、これは神が私たちを愛していないということではありません。へブル人への手紙126節に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」と書かれています。神はご自身にあずからせるために、私たちに問題や弱さを許されるのです。

 みなさんにも、人知れぬとげや弱さがあるでしょう。悩みや問題の解決を祈って願って期待して、気が付けばもう何十年にもなるということも珍しくありません。求められるのは忍耐で、忍耐は重い鉄の扉のようです。一体いつになればこの扉は開くのでしょう。いつまで待てば応えられるのでしょう。こうして私たちの信仰は試されます。

 しかし、ついにその日はやってきます。私たちの信仰は報われ、約束されたことが成就します。もし、願いがかなわなかったら、それはそれで神はその理由を教えてくださいます。その場合はさらに優れたものが用意されていることが多いのです。それゆえ決して希望を捨てず、主を信じましょう。主への信仰は必ず実を結び、決して失望に終わることはありません。

MIKOE NEWSから転載」 2024年2月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/