2014年11月29日土曜日

赦 し
 代々、教会で継承されている「主の祈り」の中に、「われらに罪を犯す者をわ
れらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節がありま す。赦し
を語る一節で、私たちが赦されるには、私たちがまず自分に罪をおかしてきた人
の罪を赦すことが必要だというのです。ルカによる福音書には 「赦しなさい。
そうすれば、自分も赦されます」(6章37節)と書かれています。
 これは、神さまの原則なのです。私たちは赦すことによって、赦されます。赦
されるためには自分もまた赦すことが必要なのです。マタイの福音書 18章で
は、王さまに返せないほどの借金があるしもべがいました。主人は哀れに思って
免除してくれました。にもかかわらず彼は自分にわずかな借金 がある兄弟を赦
しませんでした。それを聞いた主人は怒り、彼を獄吏に引き渡しました。「あな
たがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわ たしの父も、あなたが
たに、このようになさるのです」そうイエスさまは語られました。
 イエス・キリストを信じた者は、一切の罪の赦しを受けています。その大きさ
に比べれば人と人とに生じる罪の赦しは小さいものなのです。イエスさ まに赦
していただいたのだから私たちもまた私たちに負い目のあるものを赦さなければ
なりません。神はこのように振る舞うことを喜ばれるのです。
 罪をお赦しになる権限をお持ちになっているのは父なる神さまだけです。そし
てそれは、イエスさまの十字架と言う、尊い犠牲によって成りました。 確かに
赦せないことなどがあるでしょう。しかし、聖霊さまの助けを頂き、赦しましょ
う。互いに赦し合うこと、これは祝福を受ける土台であり、また 罪に打ち勝つ
力なのです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年11月30日号(第808号)より転載—

2014年11月22日土曜日

イエスのいやし
 ヨハネの福音書5章に、38年もの間病気でいる人のことが書かれています。イ
エスさまは彼の病気がもう長い間のことなのを知って「よくなりたい か」と言
いました。病人は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れ
てくれる人がいません」と、弁明のような答えをしました。素 直に「はい」と
は言えなかった、彼の心の屈折が読み取れます。
 長患いは、魂をむしばみます。一口に病と言っても治るものもあればそうでな
いものもあります。忍耐が求められ、長く患ううちに、いつの間にかい やされ
ることを諦めてしまうということは決して少なくはありません。
 娘が幼稚園に通っていた頃、障がいを持つ子のお母さんが何名かいました。教
会にお誘いしましたが、一様に断られました。これ以上失望したくな い、もし
いやされなかったらと考えると二の足を踏めない、そんな心理が働いたのではな
いかと私は思います。
 しかし信じることによって皆さんが失う物は何一つとしてないのです。神さま
は真実です。そしてイエスさまへの期待は決して失望に終わることがあ りませ
ん。たとえ、皆さんが望みえない病にあるとしても、イエスさまはあなたを、ま
たその人をいやすことがおできになるお方です。
 イザヤ書53節に、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という一文が
あります。このことば通りイエスさまは私たちのあらゆる罪、病を 担って十字
架で死んでくださいました。そして3日目によみがえり、救いの道を完成されま
した。
 人にはできなくても、神はどんなことでもできるのです。イエスさまを信じ、
イエスさまに期待してみませんか。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年11月23日号(第807号)より転載—

2014年11月15日土曜日

永遠という時代へ
 その日、東京は珍しい大雪でした。18歳の私は、福音を信じ喜びをかみしめな
がら雪道を歩いていました。天国のことはまだよくは分かっていませ んでした
が、イエスさまがあまりにも素晴らしいので、私はこれで十分、もうほかに望む
ものはありませんと主に申し上げました。そして洗礼がこの信 仰のゴールだと
思っていました。
 ところが、クリスチャンになって、神の恵みの広さ深さ大きさを知り、洗礼は
むしろ神の国の住民として生きる私たちにとっては、いわばスタートで あると
知るに至りました。
 イエスさまは、産まれながらの罪人である私たちを愛し憐れみ、十字架で死な
れることによって私たちを罪から贖ってくださいました。そして、私た ちが地
獄ではなく天国に行けるようしてくださったのです。
 ヘブル人の手紙9章には、「人間には、一度死ぬこと死後にさばきを受けるこ
とが定まっている」と明記されています。私たちの誰もが、死を迎える 定めに
あります。以前まではそれで終わりでした。しかし、キリストが現れた今、神は
信じる私たちに、御霊に属する復活の体を下さるのです。
 コリント人への手紙15章にはこう書かれています。「朽ちるものが朽ちないも
のを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』とし るされて
いるみことばが実現します」(54節)朽ちるものとは、血肉の体であり、不死と
は神が下さる御霊の体です。
 もはや死を恐れることはありません。私たちにとって地上のいのちはほんのわ
ずかな時間です。この中でよみがえりの体を頂いて、やがては私たちは 永遠
という時間を神とともに生きるようになります。この希望と信仰をあなたもお
受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月16日号(第806号)より転載—

2014年11月5日水曜日

 
 先日、ショッピング・モールで、行きつけの美容師さんと鉢合わせました。何でも病気になって、入院しなくてはならなくなったから、お店をお休みするそうで、私にどうやって伝えようか思案していたということでした。
 彼女は、美容師として独立し、自分の店を持ち、成功した人です。休日には北海道日本ハムファイターズの応援に行くことを楽しみにし、公私ともに充実した日々が彼女とともにありました。
 聖書には、こんな言葉があります。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(マルコの福音書8章36節)
 また、詩篇49篇ではこう語られています。「恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、 何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下ってはいかないのだ。(中略)人はその栄華の中にあっても、悟りがなけ れば、滅びうせる獣に等しい」
 悟りとはなんでしょう。それは、私たちは明日のことは分からない、死ぬときに何一つ持っていくことができない、という現実を知ることです。
 神さまは、私たちが神さまを知り、信じ、そして救われるように御子イエス・キリストを下さいました。
 イエスさまは、十字架で死なれ、また復活をとげ、私たちを贖ってくださいました。
 イエスさまを信じ、従いましょう。私たちには明日のことは分かりませんが、神さまはすべてご存じです。そして神さまは私たちの人生を祝福し、守ってくださるのです。このイエスさまを信じ、従う人生こそ、悟りのある人生なのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月9日号(第805号)より転載—

2014年11月1日土曜日

イエスさま
これはあくまでも、私の夢の中のことです。ボロをまとった私は道をさまよい歩
いていました。前方の左にはアクセサリー屋さんがあり、ワゴンの中に はきれ
いな髪飾りがたくさんありました。いいな、と思ったのですが自分を見て気後れ
していると、サタンのような店主が出てきて私をなじりました。 「ここはおま
えのような者が来る所ではないだろう。行ってしまえ」
 打ちのめされて通り過ぎようとしたところ、いつの間にかもう一人の方がおら
れて、私を呼んでくださいました。その方はボサボサになった私の髪を 束ね
て、ワゴンの中のそれも一番良いものを取って、私の髪にプチンと留めてくださ
いました。
 私はもう、うれしいやら恥ずかしいやらで心がいっぱいで大きな感動がありま
した。それをどう表現すればいいか分からなくて思わず私は髪からそれ をむし
り取り、その人に言いました。「だ、代金ならあります。し、支払います」そう
いってお金を探すうちに、その人はどこかへ行ってしまわれまし た。
 その後、私はその人がイエスさまだと知ったのです。財布が見つからず「買
う」ことができなかったのは、神さまの恵みはお金で買えるようなもので はな
いこと、神さまの愛ははただ一方的に受けるものであると知ったからです。
 イエスさまは、私たちを愛して十字架で私たちのすべての罪を担い、その死に
よって贖いを成し遂げ、三日目に復活を果たされました。イエスさまは 全人類
の救い主です。計り知れないほど深く大きな愛が私たちに注がれています。私た
ちはただ信じれば良いのです。イエスさまを救い主として信じる 時、あなた
に神さまの愛が注がれ、あなたの人生は神さまの下さる祝福で輝きはじめま
す。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月2日号(第804号)より転載—

2014年10月25日土曜日

非常な喜び
 先ごろ、出版されたマーリン・キャロザース氏の本の表紙に、マーリンさんの
お姿があります。あふれるばかりの喜びの姿に、人はここまで喜びに満 たされ
るのかと感動しました。
 マタイの福音書6章22節には「からだのあかりは目です。それで、もしあなた
の目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あ なたの全
身が暗いでしょう」と書かれています。その通り、マーリンさんの目は喜びをた
たえた力強く輝く目でした。そしてその明るさはお顔ばかりで はなく全身を照
らしていました。世界広しといってもあんなにも輝いている人を、私は見たこと
がありません。
 先日、今まで読み過ごしていた聖書の言葉にふと目がいきました。「非常な喜
び」という言葉です。ルカの福音書の24章では、復活の体になったイ エスさま
が弟子たちの中に立たれ、またベタニヤに連れていき、手を上げて祝福しながら
彼らから離れていかれたという記述があります。そしてそのこ とによって弟子
たちは「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえ
ていた」(52節)と書いてあるのです。
 「非常な喜び」とはどんなものでしょう。ちょっとやそっとの喜びではないで
しょう。しかしマーリンさんは、この喜びを持っていました。
 私たちもまた、この「非常な喜び」を受けることができます。
 そのためには、まずイエスさまを信じ、救いを受けましょう。そして神さまに
従いましょう。イエスさまの下さる「非常な喜び」は、世に打ち勝った 勝利で
す。サタンは喜びを奪いに来ますが、闇が光に打ち勝てないようにサタンも「非
常な喜び」の前には敗退するほかないのです。(イスラエル北 野)

み声新聞2014年10月26日号(第803号)より転載—

2014年10月17日金曜日

祈りは聞かれます
 夕刻を過ぎると「ただ今」と娘が帰ってきます。「お祈りありがとう。助かっ
た」というのがいつもの第2声です。仕事の内容がら、彼女は今「祈る しかな
い」という現状にいます。
 不思議なことに、そういうときには私にも祈りの促しがやってきて、同時刻に
助けを見たということがありました。
 祈りは現実の壁を打ち破る力があります。また神さまは、どんな祈りであって
も聞いてくださっています。そして、必ず答えを下さいます。確かに、 信仰を
持たなければなりませんが、祈りが失望に終わることはありません。
 さらに、祈りはどんな祈りでも聞かれます。
今は天にいる、私の父の楽しみの
一つに、競艇がありました。私と妹は、それを止めるよう熱心に祈って いまし
た。するとある日、父がいきなりやって来て「わしのことをもうイエスさんに祈
るな」と激怒したのです。
 何でも、このコーナーを曲がれば1着!というところで突然ボートが転覆した
り、あり得ないことが次々と起こるのです。それも、10度や20度で はありませ
ん。さては、あいつらか…、というわけで おしかりを受けました。 私たちはし
おらしくしていましたが、心の中では勝ち歌が流れていました。神さまによる祈
りの答えを見たからです。
 祈りは聞かれます。それゆえ、サタンは祈りを妨げます。まず、祈る意欲を奪
い、そして、祈っても祈らなくても同じだろう、という不信仰をまん延 させて
いきます。神さまは、不信仰を嘆かれます。私たちは、信仰の眠りから立ち上が
りましょう。「信じない者にならないで、信じる者になり」(ヨ ハネの福音書
20
27節)、祈りによる、大いなる主の奇跡をみていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年10月19日号(第802号)より転載—