2014年11月15日土曜日

永遠という時代へ
 その日、東京は珍しい大雪でした。18歳の私は、福音を信じ喜びをかみしめな
がら雪道を歩いていました。天国のことはまだよくは分かっていませ んでした
が、イエスさまがあまりにも素晴らしいので、私はこれで十分、もうほかに望む
ものはありませんと主に申し上げました。そして洗礼がこの信 仰のゴールだと
思っていました。
 ところが、クリスチャンになって、神の恵みの広さ深さ大きさを知り、洗礼は
むしろ神の国の住民として生きる私たちにとっては、いわばスタートで あると
知るに至りました。
 イエスさまは、産まれながらの罪人である私たちを愛し憐れみ、十字架で死な
れることによって私たちを罪から贖ってくださいました。そして、私た ちが地
獄ではなく天国に行けるようしてくださったのです。
 ヘブル人の手紙9章には、「人間には、一度死ぬこと死後にさばきを受けるこ
とが定まっている」と明記されています。私たちの誰もが、死を迎える 定めに
あります。以前まではそれで終わりでした。しかし、キリストが現れた今、神は
信じる私たちに、御霊に属する復活の体を下さるのです。
 コリント人への手紙15章にはこう書かれています。「朽ちるものが朽ちないも
のを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』とし るされて
いるみことばが実現します」(54節)朽ちるものとは、血肉の体であり、不死と
は神が下さる御霊の体です。
 もはや死を恐れることはありません。私たちにとって地上のいのちはほんのわ
ずかな時間です。この中でよみがえりの体を頂いて、やがては私たちは 永遠
という時間を神とともに生きるようになります。この希望と信仰をあなたもお
受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月16日号(第806号)より転載—

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