2025年8月13日水曜日

イザヤの召命

 イザヤ書6章で、イザヤは神々しいまでの幻を見ました。彼は高く上げられた王座に座している主を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていました。セラフィムにはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っています。

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。

 「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」。4節にはこう書かれています。圧倒的な主のきよさとご臨在をイザヤは見たのでしょう。

 すると、イザヤは言います。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

 この一文は、原語ではさらに激しい嘆きであるといいます。「ああ、私にはもう望みがない。私は、最低だ。どうすることもできない汚れたものだ。人々は皆神の前に汚れており、私もまた汚れたものだ。ああ、どうして、神の前に立つことができようか。私はもうおしまいだ。私はわざわいだ。」。そんな激しい慟哭なのだそうです。イザヤは神の幻を見たことによって徹底して激しく打ちのめされました。おのれの汚れ、また罪を、王座に座しておられる主を見たことによって、激しく意識したのでしょう。主の前にとても立てない自分を意識しました。

 しかし、イザヤに望みがありました。67節にはこう書かれています。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖(あがな)われた。』

 神は、燃えさかる炭をセラフィムを遣わして、汚れに満ちたイザヤの口に触れさせました。そのことによって不義に満ち、どうしようもなく汚れて、罪に満ちたイザヤのくちびるは贖(あがな)われたのです。

 その時、イザヤは主の声を聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう

 そこでイザヤは、声を聞いて応答します。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」。すると、主はイザヤに「行って、この民に言え。」から始まることばを下さり、イザヤを預言者として用い始めてくださったのです。

 イザヤが立てられるまで、彼がどん底と言えるような所を通ったことを忘れないでください。大きな働きの前に神は、しもべを本当に低くされます。いかに自分が汚れた者か教えられるのです。

 イザヤは自分に絶望していました。しかし、それが神のご計画であり、恵みであったのです。神は祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭をもって、イザヤの口に触れたのです。それによって、イザヤの不義は取り去られ、罪も贖われました。そして、預言者として応答することができました。

 どんなに自分に絶望することがあっても、唇の汚れた者であっても、神は神の方法をもって、ここでは炭を持ってきよめてくださいました。私たちも、この目で神を見る時、その聖なる姿に、もう自分は駄目だ、とどん底に下る時があります。とことん低くされますが、実はそれこそが神の召命であり、神はそれを通して私たちを立て上げてくださるのです。

 イザヤは、働きに立つ前にとことん自分の汚れを見せられました。しかし、神は、そのイザヤをきよめてくださり、召し出すことばを下さったのです。ですからあなたも、とことん自分に失望する時、その時こそ、神の召命の時と知りましょう。

 神は低くされたあなたを、神の御前で高く用いてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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