医者を必要とする者
次女が、おなかの中にいた時、入院していた病院から5、6分離れた教会に礼拝出席しようとしたところ、看護師の方々に「無理です。よしなさい」と止められました。それで、聖書を開けてみるとルカの福音書5章から「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(31節)というみことばが示されました。これは、どういう意味だろうと考え込みました。今なら、入院している病人なのだから、礼拝はお休みしなさいという意味に受け取ることもできるみことばだと分かります。
ところが、「私は、病人かしら?」とか「お産は病気じゃないわね」とかすっかり惑わされ、神のことばに聞くことができず、礼拝を強行しました。すると、教会からの帰りに出血してしまい、切迫流産で絶対安静を言い渡されました。こんなにはっきりとみことばから語られていたのに、愚かだったと反省しました。
世の中には、医者を必要とする人々がいます。病人です。医師の治療によらないでは生きることもできない人もいるのです。反対に先ほどのみことばにあるように、丈夫な人というのもまたいます。これらの人には、医者は必要ありません。自分で生きていけます。しかし、私のように医師を必要とする者もまたいるのです。
イエスさまは、このたとえで、ご自身が医師であることを語っておられるのです。ご自身なくしては生きていけない者たちをご存じなのです。それは、病気に限ったことではありません。もちろん、イエスさまは病をいやしてくださり、医者のような働きをなさいました。しかし、イエスさまが語ろうとしているところは、もっと広いのです。
ルカの福音書5章32節にこう書かれています。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。また、マタイの福音書では「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」とも書かれています(9章13節)。
イエス・キリストは、罪人の主となるために来られたお方です。罪人であるということを知った人々を悔い改めさせ、正しい道に歩ませるために、主イエスは来られたのです。イエスのあわれみは深いのです。罪人をさげすまれません。罪人の医者として、罪の縄目から解放してくださいます。ご自身おっしゃる通り、罪人を招くために来られたのです。
ヨハネの福音書8章に、姦淫の場で捕らえられた女のことが取り上げられています。律法学者とパリサイ人は、「モーセの律法ではこういう女は石打ちにするよう命じていますが、あなたは何と言われますか」(5節)とイエスに問いました。イエスは、相手をしませんでしたが、彼らがあまりにも問い続けて止めなかったので、一言こう言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)
年長者から始めて一人一人出て行き、イエスさま一人が残されました。イエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)と女におっしゃいました。
こうして、主イエスは罪を赦すという働きをなさっていました。どんな罪も、イエスさまが赦されない罪はないでしょう。赦し、悔い改めさせ、正しい生き方を取り戻させるために、イエスさまは、来られたのです。これが、イエスさまが医者だという理由です。
ただ、気になるのは「正しい人」です。「正しい人を招くためではなく」(ルカの福音書5章32節)、と主イエスは言われましたが、果たして「正しい人」なんているのか、それが私の疑問です。「正しい」と思っている人は、イエスの元に来ないでしょう。ですから、「罪人」の自覚を持っている人は、「正しい」人以上に赦され祝福されています。
「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」というこの主イエスの恵みをしっかりと心に留めましょう。
自分を罪人と認める人、自分の弱さを知る人、そして主の元に来る人を主は赦し、助け、用いてくださるのです。病人とは無力で、とにかく医師に頼るしかありません。私たちも、罪に無力な者ですが、イエスさまが私たちをあわれみをもって救い出してくださいます。罪人の主と語られた主は、私たちを悔い改めさせ、神に立ち返させるために世に来られたのです。
MIKOE NEWSから転載」 2025年8月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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