2025年7月30日水曜日

宗教

 今、若い子たちの間で、一種の宗教ブームが来ていると言われています。思い起こせば、15歳の時に、母の代理として某新興宗教の総本山に行かされたことがあります。当時の私は、宗教を馬鹿にして「いわしの頭も信心から」という言葉から、何を信じても大差ないんだ、信仰心こそが尊いんだ、という考えを持っていました。

 それで、私も悩みを持つ身、これを機会にこの宗教でいいから信じてみようか、という気になりました。まったくの初心者は、それでも3千人ほどいました。そして、その5日余りの間に、私は劇的な変化を遂げました。椅子の上に立って、数珠を上げて繰り返し叫ぶのですが、私も皆とともに、数珠を上げて大声で叫んでいました。キリスト教で言えば、アーメンというタイミングでしょうか。特別な熱狂がありました。

 また、宗教的所作を一から教えられました。ご本尊に向けて足を向けてはならない。ご本尊とその部屋は尊い。だから、ソックスを履いてはならない、などと教えられるといかにも宗教的だと驚きました。しかも、真面目に、同世代の者が心からそれを行っているのを見ると、言い知れぬ興味が湧きました。何でここまで信じられるのだろう。私と彼らは違う。何が違うのだろう、と思うに至ると、かえってもっとこの宗教を知りたいと思うようになりました。

 お勤めばかりでなく、ディスコで楽しむ機会があったり、日の出に向かって、題目を唱えて行進するということもありました。私自体は、おどろおどろしい襷(たすき)を身に着けるのは嫌いでしたし、数珠は宗教的で持つにも抵抗がありました。あくまで母の代理で来たのですが、熱狂させる力にのまれてしまいました。

 それは、宗教の力、宗教の霊であったと思います。それに引かれて、多くの者が今、新興宗教・他宗教に足を踏み入れているのではないでしょうか。信じる力、信じることによる帰依の力、こういうものが多くの人にとって魅力となっているのではないでしょうか。宗教によって縛られることさえ、ありがたいことだと思っているかもしれません。

 しかし、それでよいのでしょうか。信じ熱狂することは、人生に強い刺激を与えますが、信じることにおいて大切なのは「何を信じるか」ではないでしょうか。救いのない信仰は、命の終わりとともに散っていきます。「いわしの頭も信心」からではなく、信じるに足るべきものを信じることこそ永遠のいのちに関わるのです。

 私たちクリスチャンは、「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。そして、罪が赦されたことを証しして、死者の中から3日目によみがえられたこと。40日間弟子たちとともに過ごされ、目の前で召天されたこと」を信じています。そしてやがて、世の終わりには、おのおの生前になしたところにしたがって、さばきを受けること。しかし、イエス・キリストを信じた者はそのさばきから免れることを、聖書に書かれた通りに信じています。

 主イエス・キリスト以外に救いはありません。聖書にも「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒の働き412節)と書かれています。

 たとい宗教の熱狂があったとしても、救いがなければそれは花火のように一時を照らす光です。しかし、イエス・キリストのうちには、永遠のいのち、まことの光があります。真理は、幾つもあるものではありません。真理は一つ。イエス・キリストご自身なのです。

 私が新興宗教で渡されたお経は、内容が支離滅裂でした。どこかの王国の話のようですが読んでもつじつまが合いません。そこで質問すると、お経はありがたいものなので理解するものではありません、と諭されてしまいました。でも、これでよいのでしょうか? 非常に宗教的な答えですが、バイブル(聖書)は、誤りなき神のことば、いのちのことばです。多くの神の奇跡がこの神のことばを通して現されています。キリスト教には、真理があるのです。神のことばは、いのちなのです。聖書には読んで分からないことなど書かれていません。

 どうか、宗教ではなく、真理に来てください。熱狂ではなくキリストとの出会いを求めてください。主イエスが与えてくださるのは「救い」です。それゆえ、聖書を読んでくださるようお勧めいたします。神のことばは、静かにあなたに触れ、あなたに生きる力を与えるものだからです。あなたを変える力、不可能を可能にする力が、神のことばにはあります。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年7月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2025年7月23日水曜日

 

 先日、白馬キャンプ会場で、のどの具合の悪そうなM牧師に貼り薬を差し上げたところ、講壇から「愛を感じました」とおっしゃられたのを聞いて、新鮮な驚きを感じました。人の愛を感じやすい方なのだな、と。これはM牧師の美徳でしょう。

 初めてスプレンダーがデビューした時、私は正直なところ恥ずかしかったです。音楽を専門に学んだわけでもなく、ダンスを学んだわけでもない、その人が前に立って導いているのです。ドキドキして、正視できませんでした。しかし、今や神は牧師を30万人の前で指揮を執り、躍る者としてくださいました。また、若い頃、ディスコで鍛えたという踊りも堂に行ってきて、専門家の那須さんからも、かっこいいとお褒めを頂きました。神がM牧師を本当に愛しておられるのを感じました。M牧師が神さまを「天の御国のお父さま」と日々呼んで、愛しておられるからでしょう。子どものように。

 マタイの福音書53節に有名なイエスさまのおことばがあります。それは「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」というものです。私たちは、「心の貧しい者」でしょうか。この「心の貧しい者」という語には二つの意味が考えられます。一つは、オーソドックスな解釈で「心の豊かさに飢え渇いている者」という意味です。心の豊かさに飢え渇く思いを持つ者には、神が応えて豊かに心を満たしてくださるという解釈がなされます。

 しかし、今回、私は文字通り「心の貧しいものは幸い」と読んでいきたいと思います。心に何にも持たない貧しい人と、心に多くの要らないものを抱えて、豊かなのか自由が利かないのか分からない人がいます。神はへりくだった者を愛し、心の貧しさを愛されます。それゆえ、パリサイ人、律法学者を嫌われました。彼らのしきたり、言い伝えも憎まれたことが聖書に書かれています。彼らは、イエスさまの前に多くのものを持ちすぎたのでしょう。

 私たちの心には、たくさんの多くの要らないもので満ちてはいないでしょうか。体裁、プライド、人との比較、ねたみ、高ぶり、理屈、言い訳、うそ・いつわり、金への欲求、暮らし向きの自慢、自分を義とする思い、損得勘定、人からの称賛を求める思い、持ち物の自慢等々、挙げればキリがありませんが、心は世のものでいっぱいです。

 それに引き換え、イエスさまが愛された子どもたちはどうでしょう。「イエスさまのこと、好きだよ」これだけでイエスさまのもとへ行って、そばを離れようとしなかったのではないでしょうか。何の計算も思惑もありません。

 罪人とされた遊女や取税人も、イエスさまは彼らを愛していました。彼らは罪の赦しを信じ、それを疑うことがありませんでした。心に何の偽りもたくらみもなかったので、イエスさまもまた、彼らを愛されました。彼らもまた「心の貧しい」者であったのです。人々は彼らの陰口を言い、罪人扱いをしましたが、それが故に彼らの心は主の前にへりくだっていたのです。良く思われようとか、自分を誇ろうとか、そんなもののない「貧しい」心を主は愛されたと思うのです。

 泥のついたシャツのまま飛び込んでくれる子を神さまは愛してくださるのです。私たちは罪人です。イエスさまは救い主です。ありのままのあなたの、そのままの姿でイエスさまに帰るなら、イエスさまはあなたを受け取ってくださいます。

 それゆえ、肥え太った心こそ実は問題です。パリサイ人、律法学者のように心を太らせてはなりません。彼らはイエスさまを十字架にかけて殺してしまいました。ねたみからそうしたと聖書には書かれています。こころが肉で脂ぎっていると、世のもので豊かであると、決して主を見ることができませんし、その救いを知ることもできないのです。

 いかに「心の貧しい者は幸いで」しょうか。こころが貧しくなければ、天の御国に入れないばかりでなく、神に敵対する者となってしまいます。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」。これは、サウルの後の王に着く者を定める際に神がサムエルに語った有名なことばです。」(サムエル記第一167節)

 神の前に価値あるものはへりくだった心です。すべてはここにかかってきます。貧しいへりくだった心であれるよう、私たちも心の不必要なものを手放していこうではありませんか。

 主があなたを満たしてくださるために「心の貧しい者」でありましょう。「心がいっぱい」であると、主のものを受ける余地すらもはやありません。

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇5117節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年7月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年7月16日水曜日

 地震

 今、鹿児島、トカラ列島を中心として大きな地震が続いています。一日も早く収まるようお祈りいたします。よく、「地震、カミナリ、火事、おやじ」といって恐ろしい物の代表として、地震が挙げられています。確かに、東京にいた時、ゴーという響きとともに地震が来ると、関東平野全体が崩壊しそうで、恐ろしかったです。

 幼い頃、『地震列島』という本を読んでから、地震への恐怖はいや増しました。地震で日本は崩壊するという、ちょっとあおりすぎる所のある本でした。それで、幼心にすっかり地震への恐怖が刷り込まれてしまいました。

 また、教会がスタートして幾年もたたないうち、東京に大地震が起こるということがよく言われていました。私たちは、集まって祈り、トラクトをまき、神に悔い改めて立ち返るよう人々に語りました。同時に、水や乾パンなどの備蓄を始めました。みんな地震に関しては「明日はわが身」と受け入れるのですが、地震は神のさばきだから悔い改めよ、というメッセージを聞こうとする人はほとんどいませんでした。

 そうこうするうちに、東京ではなく、兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災が起こり、およそ数千人の人が亡くなりました。私たちの教会は、現地にチームを送りました。その後2011311日には、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が起き、数万人の犠牲者とともに甚大な被害をもたらしました。私の住む北海道では、北海道胆振(いぶり)東部地震の際、かなりの被害が出ました。これを書いている今日も、根室半島南東沖で地震がありました。

 年ごとに地震は増えている。これが私の実感です。そして、規模も大きくなってきているように感じます。今現在も南海トラフ、相模トラフをはじめ、危険を指摘されているプレートは幾つもあります。環太平洋火山帯の中に日本はいるのです。地震は、これからもっと大きなものが来るのではないかと思っています。また、いずれは地震とともに火山の爆発も起こるでしょう。富士山の噴火も昔から関東大震災とともに起きるのではとよく言われています。

 マタイの福音書24章で、お弟子たちはイエスに、「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と聞いたことがあります。その時、イエスはこう語られました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」(38節)

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(914節)

 このイエスさまのことばを読む限り、地震は世の終わりの先駆けです。それは、陣痛のようなものでしょうか。生まれいづる苦しみではあっても、まだ、誕生すなわち終わりではないのです。しかし、陣痛が10分おきから1分おきへと切迫していくように、これらのしるしも切迫していくものとみた方が良いと思います。ききんと地震は「産みの苦しみの初め」で、方々に起こるのです。そして、事実その通りになっています。

 それでは、終わりの日は、いつ来るのでしょうか。それは、御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされた後です。聖書の翻訳は、ほとんどの言語に翻訳されていると聞きますし、各宣教団体も少数民族に至るまで広く宣教の手を伸ばしています。こういう訳で、終わりの日が来るのは近いと言えるのではないでしょうか。

 地震は終わりの時代のしるしです。今起こっている地震は、イエスさまの来られる時が近づいているしるしであると知ってください。ヨハネの黙示録にも、幾つかの地震が挙げられていますが、これには一つ一つに意味があります。神は、神を信じようとしない世をさばくしるしとして地震を用いられます。

 ヨハネの黙示録に書かれている最後の地震は、人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのものとなります。地震によって大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れ、島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなるほどのものです。そしてなんと1タラントほどの雹(ひょう)まで降るのです。この災害に、人々は神にけがしごとを言いました。災害が激しかったためです。

 神さまは、これらの激しい災害の前に、悔い改めて救いを得ることをみこころとされております。

 これから、さらに地震が頻発し多くの災害が起こるでしょう。しかしそれは世の終わりに臨む私たち人類に対する、神さまからの救いの招きの時でもあります。

 今この時に、イエス・キリストを信じ、救いを受け取りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年7月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年7月9日水曜日

天国からの執り成しの祈り

 天国に行ったら、神のみこころの中、地上とは異なる自由が許されているように思う時があります。私の父、義父母は、きっとのんびりと天の生活を楽しんでいるのでは、と思っています。

 私自身は、天国に行ったら、天で主の働きについている息子エリヤに会うことが何よりの楽しみです。地上では共なる時間を持てませんでしたが、天国では永遠に共に過ごすことができます。それ以外では、いのちの水の川に飛び込んで、心ゆくまでその水を飲んで、その両側にある木の実を食べてみたい、というのが願いです。A牧師は、天地創造を見せてもらいたいと言っておられました。天国は素晴しいところだと聖書にも書かれています。

 その中で、マダムKという方は、天国で執り成しの祈りをご自分の働きとして、真剣に主に仕えておられる気がします。どうしてそう思うのかというと、私自身が、マダムKの執り成しの祈りを日々感じながら歩んでいるように思えるからです。あくまでも私個人の感覚ですが。

 マダムKと私の出会いは、子どもがまだ就学前の頃でした。下のお嬢さんもまだ結婚前で、皆若かったです。アメリカチームに参加した時、お宅に招いていただきました。里芋の煮っころがしなどの日本食でもてなしてくださり、ロングビーチのヨットハーバーが見える喫茶店でおいしいチーズケーキをごちそうになりました。その後、ショッピングモールで買い物を楽しみました。良い思い出でした。

 それからおよそ5年後、私は9カ月まで育った赤ちゃんを、交通事故をきっかけに亡くしてしまいました。最初は、感謝し隙を作らず、あたかも乗り越えたようにふるまっていましたが、やがて、その反動が出て、うつ病と診断されてしまいました。強い薬が処方され、常にボーッとして、何もできない、廃人のような人間になりました。

 少しでも良くなればという母の気持ちで何度かイスラエルチームに連れ出してもらいました。そのイスラエルで、マダムKは私を見たのだと言います。あの活発な子がいったい何があったからといってこんなになったのか、と泣いて祈ってくれたと聞きました。

 ありがたいことです。知らない所で、泣いて祈ってくれたというご愛には感謝しきれません。そして、病にあった私は、マダムKが、私の知らぬうちに天に召されたことも知りませんでした。地上ではお礼を言うこともできませんでした。

 私の病は厳しいもので、体重は増大し、目も焦点が合いませんでした。13カ月入院しました。しかし、今は回復してきているのです。自分が誰であったか分からなかったほど、失った悲しみの底に漂っていましたが、自分が戻ってきているのです。

 私は、マダムKが天で私のことを執り成し祈ってくださっているのでは、と理屈ではなく分かる気がします。その祈りが、私を立て上げていることもなぜか分かるのです。本気で祈ってくださっていると、確信に近いものがあります。

 泣いて祈ってくださったマダムKです。天国でも、執り成しの祈りの手を緩めることなく、ガンガン祈ってくださっていることを私は確信しています。そして、その祈りは確実に聞かれています。良くなったのは、私の力ではなく、執り成しの祈りのおかげであるということは、誰よりも自分が一番よく分かるのです。

 時々、イエスさまを通して、マダムKに、祈ってくださってありがとうございます、と伝えてください、とお願いする時があります。そしてマダムKに伝わっていることを願っています。

 地上であっても、誰かに執り成し祈られている、ということは分かります。だから、マダムKが天で祈ってくださっているのだ、ということが分かる気がします。彼女には感謝し尽くせない思いを持っています。そして、どうかさらにお祈りいただければと主に祈っています。

 天と地をつなぐ祈りがあります。地上にいる私たちのために天から祈っている方々がいると思います。それらの祈りによって助けられていることは、私たちが思う以上に多いのではないでしょうか。働きは地上でしかできません。天に帰ってしまったなら、もう救いを語れないのです。そのチャンスは地上にいる私たちにあります。ですから、地上の働きが進むよう、私たちが実を結ぶよう、天で真剣に私たちのために祈っている方々がおられることを覚えておきましょう。あなたのためにも、天で祈っておられる方がいると私は信じています。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年7月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/