2025年3月26日水曜日

人を変えるお方

 馬橋教会の新井宏二牧師は、化学出身であるそうで、大学生の私にこう語ってくださいました。「教会にいる人は、ビーカーのような人、この人はフラスコ、あの人はシリンダー、試験管とそれぞれいろんな形はしているけれど、そこに神さまの愛が注がれると、一様に化学変化を起こして中身が変わっていくのを見るんだよ」。それが牧師の醍醐味(だいごみ)だとばかりに教えてくださいました。

 まさにその通り、イエス・キリストに出会うと人は必ず変わります。変わらない人は誰一人いません。これは世の人には考えられないことでしょう。しかし、断言できます。かつてツッパリをやっていた元カミナリ族の青年は、三浦綾子さんの『塩狩峠』を通してイエス・キリストに出会い、宣教師になって人生をキリストにささげました。これまで勉強などしたことのなかった青年は、しかし宣教地の言葉を学び、今や現地の人並みに話します。働きに必要な力は主が与えてくださるのです。

 マーリン・キャロザーズ氏は、軍の規律を犯してFBIに逮捕された青年でした。酒やたばこ、お金や女性に魅力を感じていたごく一般的な徴集兵でした。家族の祈りによって、ある日彼は内側に語りかける迫りを受けて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる招きに応答したのです。詳しい経緯は『獄中からの讃美』というミリオンセラーになった本をお読みください。チャプレンとして歩み、晩年は私たちの神学校の先生となり「すべての事について感謝する」というキリスト教の奥義を取り次ぐ働きをしてくださいました。しかもそれを実践している人で、マーリンさんの内には暗いところが一つもありませんでした。全身が輝いていて「プレイズ・ザ・ロード、ハレルヤ!」と常に喜びをあふれるまでに現し、地上にいながらあたかも天国に住んでおられるかのような人生を歩んでおられました。

 また、聖書のパウロは生まれながらのローマ市民で、ガブリエル門下というエリート街道まっしぐらの優秀な青年でした。彼は主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、この道の者であれば男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来る許可をもらい、激しく彼らを迫害しました。ところが、ダマスコに来た時、主に出会うのです。

 彼は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というキリストの声を聞きました。そして、キリストの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶという召命を受けました。一転して、迫害者から主のしもべへと変えられたのです。ペテロとともに、初代キリスト教界の双璧と言えるほどの働きをしました。

 聖書にこのようなみことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二517節)

 私たちに働くイエス・キリストの力は、素晴らしいものです。多くの例を挙げましたが、みな同じ人間だと思えないほど、180度違った人間になりました。しかもそのすべてが、神の栄光を現す者へと変えられています。キリストを信じるということは、今までの自分に死ぬということに等しいのです。古い人は過ぎ去り、私たちは、私たちを造られた神の計画にそった本来の自分の姿に帰ってゆくのです。

 私たちは皆、罪を持って生まれてきました。そして、生きることと言えば罪の実を結ぶことばかりでした。人生に希望がありません。煩いがあり、病があり、最後に来るのは「死」です。誰もが絶望を感じています。

 しかし、こんな私たちを、神は愛しておられるのです。なぜなら、あなたを愛する故に、神はあなたをお造りになったからです。罪の力から自力で抜けることはできません。だから、神は御子イエス・キリストを世に遣わし、この主の十字架の死によって、またその復活によって私たちが贖(あがな)われ、私たちが永遠に生きるようにしてくださったのです。

 神の愛を知るなら、いわゆるその化学反応が起こると、人生は一変します。あなたは新しく造られた者となるのです。イエス・キリストを信じてみませんか。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年3月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月19日水曜日

 罪の目盛りが満ちて

 アブラム(後のアブラハム)は、75歳になった時「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12章参照)という主のお告げに従い、妻のサライ(後のサラ)とおいのロト、そして大勢の者たちとともにカナンの地に行きました。

 ところが、ベテルやアイに来た時、彼らの持ち物が多過ぎて、ロトとアブラハムの間にいさかいが絶えなくなりました。そこでアブラハムは、「別れてくれないか。君が左に行けば私は右に行こう」と持ち掛けたところ、ロトは、その時主の園のように潤っていたソドムとゴモラのあるヨルダンの低地を選び取り、ソドムの近くに天幕を張りました。ところが、ソドムの人というのはよこしまで主に対しては非常な罪人でした。

 創世記18章。主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われました。三人の人が彼に向かって立っていたのです。アブラハムはひれ伏し、もてなしました。その人は、「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている」と告げ、その人たちはソドムを見下ろすほうへ上って行きました。アブラハムもいっしょについて行ったところ、主はこれからしようとすることを、アブラハムに隠しておくべきか、と案じられ、そこで彼に仰せられたのです。

 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」。アブラハムはまだ立っており、主にとりなします。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽されるのですか。町の中に50人の正しい人がいるかもしれません。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか」。主は答えます。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう

 アブラハムは、「その五十人に五人不足しているかもしれません」と言いました。主は「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら」と答えてくださいました。四十人ならどうですか、三十人、二十人、そして十人見つかるかもしれません。アブラハムは精一杯食い下がりました。すると主は、「滅ぼすまい。その十人のために。」と言ってくだり、去って行かれました。

 二人の御使いは夕暮れにソドムに着きました。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって迎え、伏し拝み、「家にお泊りください」としきりに勧めたので、家の中に入りました。彼らが床につかないうちに、町のすべての人々が、ロトの家を取り囲み、「今夜おまえのところにやって来た男たちを連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」と言います。これは、男色のことを言っているのです。ソドムの者は、ホモ・セックスの性的倒錯、罪に汚れた町であったのです。彼らの罪は熟しきっていました。神は、恐らくアブラハムとの約束を覚えてくださったのでしょう。憐れみによって、ロトとその妻、ふたりの娘の手をつかんで、町の外に置いてくださいました。そして「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう」と告げました。

 太陽が地上に上った頃、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ばされました。ロトの妻は、うしろを振り返ったので塩の柱になりました。

 これは、紀元前2067年に起こった史実で、聖書の創世記に記されています。罪の目盛りというのが、神の前にあります。それがいっぱいになるまで、神は静観を保たれます。しかし、民衆の声が上がり、その叫びが神に届くと、罪の目盛りもいよいよ限界に達します。その日が来たなら、主は容赦なくさばきの手を下されます。現代もまた、ソドムとゴモラ同様、罪の目盛りが満ちてきていることを思いませんか。

 近頃話題になっているLGBTIQの問題も、まさにソドムの男色を思わされます。性が歪み、殺人、人身売買、不品行、偶像礼拝、正しい教えに耳を傾けず、偽りを愛する時代になっています。ペテロの手紙第二210節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る」とも「彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とも書かれています。今の世界がさばかれず、このまま続くと思ってはなりません。神は、静観されていましたが、もはやその期限も過ぎようとしているのです。

 ペテロの手紙第二3章にはこう書かれています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(10節)。今度は、ソドムとゴモラ以上のさばきがなされるのです。そして、その日は近いと聖書は警告しているのです。

 しかし神は、ご自身の民、すなわち御子イエスを信じて神を恐れる正しい者を心に留め、携挙の恵みを与え、また、世の終わりの直前の終末の大リバイバルを約束しておられます。既にそれは始まっており、多くの者が救われ、あらゆるしるしと不思議を伴うわざをもって私たちを救いへと導き、おびただしい数の人々が救われています。日本においては、派手な動きは起こっていませんが、必ずこの先にそれを見るようになるでしょう。

 イエスさまが宣教を開始された時、イエスさまはこう語りました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

 同じように今、再び時は満ちています。キリストの再臨に向けて、いよいよ神の国は近くなりました。悔い改めるということは心の方向を変えるということです。自分中心の歩みから、神に従うよう、生き方を変えましょう。そして、熱心に悔い改めることを求め、また福音を信じ、宣べ伝えましょう。

 多くのリバイバルの前には、悔い改めの霊が豊かに注がれました。ペテロの手紙第一417節には「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです」と書かれています。まず、教会・神の家から悔い改めが起こり、リバイバルは始まります。それゆえ熱心に悔い改め、互いに赦し合い、愛し合いましょう。悔い改めは、リバイバルを起こす重要なスイッチであると私は思っています。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年3月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月12日水曜日

王明道と器の立て上げ

 私は18歳の時に救われ、即座に献身しました。その時口にした言葉は「遅すぎだ」というものでした。それを聞いた牧師は、半ば笑って「そんなことないよ」と言うのです。私としては、確かに短い18年間ではありますが、それなりに傷つくこともあり、もっと早く主を知っていれば人生また違ったものであったろうに、という思いがありました。それで、前述の言葉となった訳です。

 それから41年になります。あっという間にこれだけの年月がたちました。主の奉仕にも少しずつ携わらせていただき、さまざまな訓練もありました。顧みるに、その中で一番大きな大切な訓練は「待たされる」ということであったと思います。

 イエスさまは、公生涯に入るまで、30年の間両親に仕え従ってこられました。アブラハムが召命を受けたのは75歳でした。モーセは、イテロの下で40年間訓練を受けました。ヨセフは17歳から奴隷に売られ、長い年月を経てパロ(ファラオ)の前に立ちました。大きな働きを任される前には、例外なく待たされる、試される、という訓練を通るようです。神さまは私たちの人生を、私たちの思うようには見ていません。長い訓練を許し、ある日突然といった形で本格的な召しに立たせられるのです。ヨセフはその良い例でしょう。

 そして、待たされているその訓練は、後の本格的な働きの準備となっていることが多いです。神さまのなさることに無駄はありません。神さまとの個人的な交わりを深めるために、さまざまな訓練が私たちに許されるのです。

 ここで、中国の牧師、王明道(ワン・ミンタオ)のことをお話ししましょう。1950年代,三自愛国教会(中国政府が管理する共産党キリスト教会)に加わらない数千名の指導者が次々と逮捕され労働改造所に送られました。王明道は、三自愛国運動への参加をきっぱりと拒否したので、1955年に逮捕。収監されました。しかし、56年には自己批判書の声明を出し保釈されました。しかし、深く心の痛みを覚え、「私はユダだ、裏切り者だ」と、昼夜町を狂ったように徘徊する彼がいました。そして一月後、彼はその声明書を否定し、再逮捕されました。ここから合計23年の牢獄生活を送るようになります。こんなこと人間に耐え得るのでしょうか。人生のもっとも良い働き盛りを牢獄で過ごすなんて、私なら人生をのろいます。

 ところが、1974年に王明道から親戚に宛てた手紙が届きます。そこには、「私は空を飛ぶ雀のように自由です」。「私は素晴らしい人生の大学に入ったようなものです。私は実に多くのことを主から学びました」と書かれていました。一体何が起こっていたのでしょうか。王明道とともに収監されていたカトリックの医師は14年目の投獄で自ら命を絶ちました。いつになれば釈放されるのか分かっていれば、まだ忍べるかもしれません。しかし、無期限で牢獄で命を紡いでゆくのは、私ならとてもできないと思います。それを、「雀のように自由です」と語るなんて、主は彼に何をなされたのでしょう。

 今までの献身生活の中で、理不尽と思われるようなことが起こると、いつも語られる神のみことばがあります。それは、ペテロの手紙第一56節で「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」ということばです。私は、このことばからはいつも「忍耐」を学びました。神の目から見て、ちょうど良い時というのがあるのです。その時までは、誰もが神の力強い御手の下にへりくだることを学ぶのです。イエスさまも、モーセも、ヨセフもみんな待たされました。

 王明道もまたこの道を行ったのです。それは、長いトンネルのようなものです。入ると真っ暗で、どこを走っているかわからず、出口が見えません。しかし、進んで行くうちにやがて光射し風そよぐ明るい世界に到達します。そして、トンネルというものは、2地点を結ぶ最短距離なのです。無為に過ごしたかに見える23年間が、実は神の前には、立て上げるための最短距離であったのです。

 聖書にはこのように書かれています。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(ペテロの手紙第一510節)。すべては私たちの立て上げのために許されるのです。忍耐を働かせ、またすべての事を感謝しましょう。今の試練は、将来の働きのために、神が深いご計画をもって一人一人に許しておられるものなのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年3月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月5日水曜日

赦し

 誰かは忘れましたが、「僕は人を非難するようなできた人間でないから、せめて人が何をしたとしても非難することはしないようにしている」と言った人がいます。奇特なお人だと思いました。

 イエスさまは、マタイの福音書でこう語られました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり・柱に使う太い木)には気がつかないのですか」(713節)

 人の悪い所というものは、教えられないにしても、よく目につくものです。そして、それで嫌になったり、それに我慢できなかったり、非難したり、つまりはイエスさまがおっしゃった通り、兄弟を「さばく」のです。けれども、こと自分のこととなると、私たちはうって変わって甘口になるのです。無意識の内にうぬぼれたり、自分を自慢に思ったり、時には舞い上がってしまい人を見下します。人が馬鹿に見えることさえあります。私たちの内に、そういう性質があることを知っておくということは、とても大切なことだと思います。イエスさまの教えは、本当に的確です。

 謙遜、へりくだりという徳を私はクリスチャンになって初めて教わりました。イエスさまが直接教えられたほど、この学びは重要です。なぜなら、これは「赦し」に関わってくるものだからです。

 イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりとしてご自分に負われ、十字架にかけられいのちをささげられました。神のさばきを身に受けて死に、3日目によみがえり、私たちを贖(あがな)ってくださったのです。この十字架のゆえに、神は人のすべての罪を「赦された」のです。

 そこから、新しい時代に入りました。「赦し」のある時代です。人類に希望が差し込みました。今まで誰が「赦す」なんてことができたでしょう。そんな権威をお持ちになっているのは神さまだけです。罪のある者は当然のごとく、人の罪を赦すなんてことはできません。罪のないお方である神だけが、罪を「赦す」ことがおできになるのです。

 ルカの福音書23章は、イエスさまが十字架につけられた時のご様子が書かれています。十字架につけられた時、イエスさまはこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(34節)。ここで、イエスさまはイエスさまを殺す人間のその(原)罪に、赦しを宣言されたのです。それもまだ、私たちが罪を理解する前に。

 それは、私たちの罪が残ることのないように、という愛から出ています。日本二十六聖人の一人であるパウロ三木は、西坂の処刑場の十字架の上から最後のメッセージを語りました。そこで彼は「私は、(私を十字架にかけた)あなたがたを赦します」と宣言しました。

 使徒の働きに出てくるステパノは、人々に石打ちにされ今や死に行く時に、ひざまずいて、大声でこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。そして、眠りについたのです。(760節)

 イエス・キリストがなされたことは、罪を赦すことでした。主にあって赦されない罪は何一つとしてありません。どんな罪でも赦されるように、主は私たちのために十字架のみ苦しみを極みまで全うされたのです。

 十字架によって贖いは完成しました。それで、今では主イエスの名によってあなたの罪を言い表しそれを捨てるなら、神はその罪がどんなものであっても赦してくださいます。というのは、ヨハネの手紙第一19節にはこのように書かれているからです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 十字架の前に罪を言い表しそれを手放すことで、私たちは完全な赦しを受けるのです。

 赦されたことのない人は、赦すことはできません。赦されることによって、初めて人は赦すことを学ぶのです。イエスのくびきは軽いというのは、罪ではなく赦しのもとに私たちが生きるからです。人の罪を赦せない者は自分の罪をもまた赦せません。ですから、一生罪の闇の中で生きることになります。その行く末は死です。ですから、主イエスは、またステパノもパウロ三木も、赦して死んでいったのです。それは私たちのためにです。ですから、私たちもまた赦された者として、互いに赦し合って生きていきましょう。これが、主がみ苦しみの中で与えてくださったご愛なのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年3月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/