2024年6月13日木曜日

神から受ける慰め

 あまりにもつらいことが起こった時、人は、慰められることを拒みます。マタイの福音書218節にこんな記述があります。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ

 ラケルはなぜ泣いているのでしょうか。それは、自分の子が殺されたからです。ユダヤ人の王として生まれたというイエスさまの誕生を恐れたヘロデが、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男児をひとり残さず殺させた、という史実があります。ラケルの子も、おそらくこのように殺されたのでしょう。それで、慰めを拒んで泣いている、というのです。

 イザヤ書には「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」(4915節)という一節があります。これは、父なる神さまのことばです。神さまは分かってくださっているのです。母親にとって子を失うことが、どれほどつらいことかご存じなのです。

 私のことを話させていただくと、私は、9か月まで育ったおなかの子どもを、突然亡くしました。胎の子を深くあわれみ、あわれみは高じて病気になりました。「うつ病」を発症したのです。生きることを放棄した年月がありました。およそこの30年間のことです。もちろん教会で教えられた通り、私はこのことが益と変わることを信じました。それゆえこのことを感謝しました。でも、心は動きませんでした。私は、良くなりたくなかったのです。なぜなら悲しみにふけること以外、私がその子にしてやれることはもう何もなかったからです。その子の生きた証しをとどめておくために、私は泣き、そして慰めを拒みました。愚かしいと思われることでしょう。人生を棒に振ったかもしれません。しかし、これが私の真実なところだったのです。

 多くの年月が必要でした。しかし、ついにある時神さまの前に出ました。神がこのことをどう見ておられるのか、それを知りたかったのです。もし、神さまが「感謝しなさい。すべては益になります」……そうおっしゃったら、それは本当にその通りだけれど、そうした時には、もう私の弱さを持っていく場所がありません。神さまは何と語られるのでしょうか。

 それは、まったく思いもよらないことばでした。神さまは、私に寄り添い、静かな声で一言こう語ってこられました。「娘よ。わたしもまた子を失ったのだ」……それを聞いた時、私は走馬灯のようにイエスさまのご生涯を思い起こしていました。ああ本当にそうでした。神は、確かに愛するひとり子イエスさまを、私たちのために失っておられました。子を失う痛みを誰よりもご存じなのは他ならぬ父なる神さまだったのです。それに気づいた時、波のように押し寄せてくる神の愛と、深い慰めに包まれたのです。

 コリント人への手紙第二1章にこのように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(34節)

 神は、慰めのお方です。最高の慰め主です。私たちが慰められることはもちろん、その慰めによって、他の人と慰めを分かち合うこともできるのです。私たちは深い神の愛に満たされています。今は私も、すべての事を心から神に感謝しています。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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