2024年6月26日水曜日

教会時代

 今から、約2千年前にイエスさまはこの世に来られました。罪により死に定められている私たち人間に救いを与えるため、十字架で死なれ3日目によみがえり、私たちの罪の贖(あがな)いを全うされました。そして昇天され、今は天で神の右に座しておられます。

 イエスさまは、世の終わりに再び世に来られること、すなわち「再臨」を約束されました。その日が来るまでは「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇1101節)のことばに従って、地上での働きを私たちに委ね、サタンがご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 その再臨までの期間に「教会時代」が挿入されました(ダニエル書92527節参照)。これは、主イエスによって導入された時代また期間です。主の働きは、イエスさま個人を通したものから、教会を土台とし教会を通して行われるものに変化しました。イエスさまは教会のかしらであり、教会はキリストの花嫁だといわれています(エペソ人への手紙5章、ヨハネの黙示録19章、21章参照)。主イエスの再臨に備えて、花嫁なる教会を一つのみからだとして御前に立て上げてゆくことがこの時代における働きの中心です。

 また、神は地上における大患難の苦難から私たちを守るため「携挙」という奥義をもって私たちを天に引き上げてくださることを約束されました(テサロニケ人への手紙第一417節参照)。これは空中再臨と呼ばれ、その後患難時代後半の大患難時代に入って教会時代は終わり、終末の黙示録の最後の時代となります。そこでは花嫁なる教会と子羊イエスの婚姻がなされ、新しい天と新しい地がもたられることが書かれています。

 このような流れがあって、今のこの教会時代にイエスさまは、みこころをもって天に留まっておられるのです。それは、より優れた宣教の働きのためです。ヨハネの福音書1232節でイエスさまは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」とおっしゃいました。確かに、地上での宣教には限界があります。肉にあるうちは、どう頑張っても一度に1カ所にしか居られません。けれども、天に行くなら、主は地球上のあちこちにあまねく遍在することができ、働きは比べ物にならないほど広がります。

 また、同16章では「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7節)というイエスさまのことばがあります。その約束はペンテコステの日に実現しました。そしてこの聖霊降臨を境に、教会が、教会時代がスタートしたのです。助け主とは、聖霊さまのことで、聖霊は日々私たちに神の道を教え、信仰に堅く立つよう導いてくださいます。

 この終わりの時代、イエスさまはその宣教の使命を教会に委ねられました。エペソ人への手紙では、「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(12223節)と書かれています。

 教会は神の奥義です。そして私たちは、それぞれこのキリストのみからだなる教会の一器官なのです。互いに和合し、時を見分け、かしらなるキリストに聞き従い、主が再び来られるその道を備えてまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月20日木曜日

 ご臨在

 TLEAが、まだTLCCC(主の十字架クリスチャンセンター)であった初期の頃、神さまはいろいろな海外宣教を体験させてくださいました。当時、多くの者が20代やそこらで、皆、本当に若かったです。そろいもそろって、お金もありませんし英語もできません。にもかかわらず、神さまの導きを信じ、主を求め、祈り、不思議と備えられた余ることもなく足りないこともないぴったりのお金、それを用いて、海外宣教に出て行きました。

 初期の頃によく行ったのは、ロサンゼルスにあるオンザウエイ教会でした。そこのプレイヤーチャペルで祈るということが導かれました。このプレイヤーチャペルは、オンザウエイ教会の最初の会堂でした。ある時、この会堂の四隅に天使が立ち、一面霧のようなものが立ち込めるということが起こりました。その霧のようなものは、神のご臨在でした。そして、この不思議な現象を境に、オンザウエイ教会に人々が集まるようになり、いろいろなわざが起こり、どんどん教会は成長していきました。今は万という人数が集まっています。

 当初は、3週間の予定で宣教に行っていたので、私たちは、来る日も来る日もプレイヤーチャペルに通いました。天使が立ったという四隅に立って祈ったり、この臨在を日本に持ち帰ろうと熱心に求めました。チャペルには、神の平安と慰め、そしてやすらぎがありました。何とも言えない神への慕わしい思いが紡がれていくのです。恵まれすぎて、祈りの格好をしたまま寝入ってしまうこともありました。それらを含めて、私たちは深いご臨在のうちに包まれていたのです。そして、1度と言わず、何度も私たちはロサンゼルスを訪れ、祈りの時を過ごしました。これは、感謝し尽くせないほどの恵みでした。

 さて、臨在とはどんなものかというと、詩篇でダビデはこう歌っています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(1611節)。ご臨在のある所には、神のくださる喜びがあり楽しみがあるのです。ずっとこのままでいたいと切望するような、立ち去りがたいご愛を感じます。プレイヤーチャペルでの臨在がまさにそれでした。

 また、ダビデは詩篇23篇で「私の杯は、あふれています」(5節)とも歌いました。ご臨在は尽きない泉のように私たちの心の奥底からこんこんと湧きいで、ついにはあふれ出るのです。そこでは、誰に教えられなくても、皆が、神さまのご愛がここにあると知るのです。そして大勢の人々が泣きながら神のもとに帰ってゆきます。

 詩篇223節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれています。ご臨在と賛美には密接な関係があります。賛美には聖なる主、生ける神が、住まわっておられるのです。だからこそ、賛美する時にはそこに強いご臨在が現されるのです。リバイバルでは、ますます賛美が用いられていくでしょう。賛美の中には神がおられます。そして神はご臨在をもって私たちの賛美に応えられます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月13日木曜日

神から受ける慰め

 あまりにもつらいことが起こった時、人は、慰められることを拒みます。マタイの福音書218節にこんな記述があります。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ

 ラケルはなぜ泣いているのでしょうか。それは、自分の子が殺されたからです。ユダヤ人の王として生まれたというイエスさまの誕生を恐れたヘロデが、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男児をひとり残さず殺させた、という史実があります。ラケルの子も、おそらくこのように殺されたのでしょう。それで、慰めを拒んで泣いている、というのです。

 イザヤ書には「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」(4915節)という一節があります。これは、父なる神さまのことばです。神さまは分かってくださっているのです。母親にとって子を失うことが、どれほどつらいことかご存じなのです。

 私のことを話させていただくと、私は、9か月まで育ったおなかの子どもを、突然亡くしました。胎の子を深くあわれみ、あわれみは高じて病気になりました。「うつ病」を発症したのです。生きることを放棄した年月がありました。およそこの30年間のことです。もちろん教会で教えられた通り、私はこのことが益と変わることを信じました。それゆえこのことを感謝しました。でも、心は動きませんでした。私は、良くなりたくなかったのです。なぜなら悲しみにふけること以外、私がその子にしてやれることはもう何もなかったからです。その子の生きた証しをとどめておくために、私は泣き、そして慰めを拒みました。愚かしいと思われることでしょう。人生を棒に振ったかもしれません。しかし、これが私の真実なところだったのです。

 多くの年月が必要でした。しかし、ついにある時神さまの前に出ました。神がこのことをどう見ておられるのか、それを知りたかったのです。もし、神さまが「感謝しなさい。すべては益になります」……そうおっしゃったら、それは本当にその通りだけれど、そうした時には、もう私の弱さを持っていく場所がありません。神さまは何と語られるのでしょうか。

 それは、まったく思いもよらないことばでした。神さまは、私に寄り添い、静かな声で一言こう語ってこられました。「娘よ。わたしもまた子を失ったのだ」……それを聞いた時、私は走馬灯のようにイエスさまのご生涯を思い起こしていました。ああ本当にそうでした。神は、確かに愛するひとり子イエスさまを、私たちのために失っておられました。子を失う痛みを誰よりもご存じなのは他ならぬ父なる神さまだったのです。それに気づいた時、波のように押し寄せてくる神の愛と、深い慰めに包まれたのです。

 コリント人への手紙第二1章にこのように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(34節)

 神は、慰めのお方です。最高の慰め主です。私たちが慰められることはもちろん、その慰めによって、他の人と慰めを分かち合うこともできるのです。私たちは深い神の愛に満たされています。今は私も、すべての事を心から神に感謝しています。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月5日水曜日

AI

 先日、私たちの教会の牧師をAIで加工した映像を見ました。驚きました。あまりにも見事に作られていたからです。牧師が英語で説教している様子で、顔の表情も口元も声も牧師そのものです。誰が見ても牧師が英語で話しているとしか見えないでしょう。

 近年、AIの進歩には目覚ましいものがあります。もし、誰かがAIを用いて牧師にこれこれのことをしなさいと言わせたら、聞いた私たちがそのまま信じてそれを実行するであろうほどのレベルです。驚きとともに、恐れを抱きました。何でも聞く通りに答えてくれ、しかも秩序正しく完璧な答えがわずか12秒で手に入るわけですから、これはもう時代を席巻しているといえるでしょう。

 「クレヨンしんちゃん」というTVアニメがあります。しんちゃんのお母さんはみさえさんといいます。みさえさんが「晩ご飯は何がいいかしら」とAIに聞くとAIは「ピーマンの肉詰め」と答えたそうです。すると、何か取りつかれたような顔をしてピーマンとお肉を買いに行こうとします。それどころか、夕飯のメニューの他にも、あらゆる事柄をAIに聞き始めます。街に出ると、スマホを耳に当て、AIに聞いている人だらけです。おかしいと気づいたしんちゃんが、みさえさんからスマホを取り上げようとして、強引に引き離したところ、はっといつものみさえさんに戻りました。興味深いシーンで、これは決してアニメの世界の話ではなく、こういう現実は既に始まってきていると作者が警告しているのではないかと思いました。

 人類はさまざまな歴史をたどってきました。私たちの遠い祖先は生きてゆくために「狩り」をしなければなりませんでした。そして、それが人類が「道具」を用いていくことの始まりとなったのです。釣った魚が針から落ちないように「鉤(かぎ)」を付ける発見があり、また動物を仕留めるための槍(やり)や刀を作りました。これらは「道具」と呼ばれるものであり、私たちの生産の働きを向上させるために創られたものです。これが「狩り」を優位に行うために生まれた古代の文化であったのです。

 近代になると、今度は産業革命が起こります。そこでは「機械」が出現し、「道具」の時代と作業効率は、比較にならないほど大きなものとなりました。「道具」と「機械」の違いは、私たちを主体としたものか、機械を主体として仕事能率を上げたものか、による違いがあると思います。そして現代ではAIが主体になって私たちの働きを今までとは比べ物にならないくらいに飛躍させています。

 現代または近未来、AIは作業効率においては究極の形として登場しました。AIすなわち「人工知能」の出現は、産業革命以降に訪れた最も著しい社会変化であるのです。これから、ますますAIは多くの分野で用いられ、時代を変えていくでしょう。しかし、「肉詰めピーマン」ではありませんが、これを用いる私たち人間が、いつのまにかAIの僕(しもべ)になってしまっているような事態は避けなければなりません。

 ヨハネの黙示録13章に興味深い記述があります。「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした」(1617節)

 これは、もはや半ば成就している預言です。刻印といえば、ディズニーリゾートの受付では、目には見えない印が手に押され、それを読み込むことによって自由に外に出たり中に入ったりできるので、技術的にはもう刻印を受けさせることはできます。また、人々を掌握するためにマイナンバーカード制度が力を得てきています。これらが重なるとどうなるでしょうか。

 「道具」の時代から「機械」の時代へと、より多くの作業効率を追求して進化し、動かしていた主役は人間でした。ところが、AIはその圧倒的な作業効率と引き換えに、私たちが管理するという主役の座を降りて、自分たちをAIに管理させるというあり方を取っているように思います。これが、今までと違うところで、AIによって民族や国々の垣根が取り除かれ、今や世界は一つになろうとしているのです。

 こういった時代背景の中でAIは大きく用いられています。そして、これからが本番です。便利だから使う、用いる、は自然な流れです。しかし、何でもAIに聞くということはAI依存になりかねません。自分で考えるということをしなくなります。そしてそれは敵の狙いの一つです。また、AIで私たちに返事をしてくれる人はいったい誰でしょう。それが何者か考えたことはありますか。確かに、21世紀の私たちにはもはやAI抜きの生活はあり得ません。しかし、便利さと引き換えに、失おうとしているものもまたあることを知っておきましょう。

 世の終わりは近いです。自分の力でAIを見分けることはほぼ不可能でしょう。AIは、私たちの手を離れた人工知能なのです。時々刻々と進化します。それでもAIが精巧に造った仮想現実の行く末を、しっかり見届けることがこの時代に生きる私たちの使命ではないでしょうか。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年6月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/