2024年4月3日水曜日

塩が塩けを失ったら

  塩は、お料理に欠かせないものです。最近でこそおにぎりを家庭で作ることは少なくなりましたが、お母さんがその手で握ったおにぎりは、塩味が抜群で、何の具も入れなくてもとてもおいしいものです。また、フライドポテトや粉吹き芋も塩味が味の決め手となります。魚を焼くにも塩少々を振ります。味を引き締め腐敗を防止し、清めともなって、塩は私たちの生活の中でなくてはならないものです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「あなたがたは、地の塩です」(513節)と語られました。クリスチャンは、主イエスの十字架によって世から贖(あがな)われた者であって、神の子です。内側に聖霊さまが内住されていて、世にあっても世の者ではありません。救いにあずかっているので、真理のためなら何でもできます。でも悪事に加担すること、すなわち罪の道に歩むことだけはできません。神の御霊がそれをお許しにならないからです。そしてそれが、世にあって塩けとなっているのです。

 テサロニケ人への手紙第二2章は、霊によってでも、ことばによってでも、主の日がすでに来たかのように語り、それをあおる者たちに対して、パウロが見解をただした書簡です。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない、とした上でパウロは語ります。

 「彼は、すべて神と呼ばれるものに反抗し、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし、今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(468節抜粋)

 不法の人とは反キリストです。彼の到来を引き止めている者、これが私たちクリスチャンの存在ではないかと私は考えています。テサロニケ人への手紙第一4章には、「携挙」のことが書かれています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(1617節)というのがそれで、神が定められたその日、用意のできたクリスチャンは、一挙に天に携え挙げられます。これを携挙と言います。

 携挙が起こったら、もはや不法の人の出現を引き止めるようなものは無くなるでしょう。サタンの働きによって反キリストが立ち、世はまっすぐに終末へ滅びへと向かうでしょう。そして、このような時代はすぐそこまで来ています。

 イエスさまは言われました。「塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい」(ルカの福音書143435章)

 クリスチャンは地の塩として、神に用いられています。世から贖われたことがその特徴で、世に対しては死に、神に対しては生きています。彼らを贖われた十字架の主に従い、その信仰によって、神の栄光を現しています。その生き方を貫くなら、その存在は地の塩となり、神はあなたを用い、ご自身のみわざを現してくださいます。しかし、主に対する信仰と塩けを失くしてしまったらどうなるでしょうか。何の役にも立たず、外に投げ捨てられるのが落ちだというのです。

 私たちから、信仰を取ってしまうと残るものは塵(ちり)や芥(あくた)です。何の役にも立ちません。それゆえ、主への信仰と信頼を決して手放してはなりません。地の塩として、信仰に生きる人生を全うしましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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