2024年3月14日木曜日

キリスト、その謙卑の生涯

 イエスさまは、神のひとり子であり、王でありました。この方にあってすべてのものが造られ、そのいのちは人の光でした。

 にもかかわらず、イエスさまのご生涯は貧しいものでした。お生まれになった所は宿屋の馬小屋で、馬の飼い葉おけが生まれた彼のベッドでした。その誕生の時からイエスさまは誰よりも貧しく低くあられました。すべての人を獲得するためです。

 また常にキリストの側にいたのは、社会におけるいわば底辺と呼ばれる人々でした。嫌われ者の罪人(ざいにん)、取税人や遊女たちです。イエスさまはこのことを問われると「私はあわれみは好むが、いけにえは好まないとはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイの福音書913節)と語り、罪人(つみびと)の主と呼ばれることを恥ともされませんでした。なぜなのか。それもまたすべての人を救うためであるからです。イエスさまがこの世に来られたのは、すべての人がキリストにある永遠のいのちにあずかり、救われるためであるのです。

 イエスさまの十字架はなぜ許されたのでしょうか。一つとして罪を犯さなかった唯一のお方がなぜ殺されなければならなかったのでしょう。また、なぜイエスさまはそれを避けようとされなかったのでしょう。それは私たちの罪を赦すためです。十字架にはいろいろな意味があります。その最も大きなものは「贖(あがな)い」です。罪の赦しには贖いが必要です。イエスさまが来られる以前は、人々は牛や羊をいけにえとして屠(ほふ)り、罪のための贖いとしてささげていました。しかし、私たちの罪は牛や羊のいけにえの血をもってしても清められるものではなかったのです。

 それゆえ、時至ってイエスさまは世に来られ、ご自分の肉によってすべての人の罪を負い、十字架で血を流して死なれ、贖いを完成されました。すべての罪は、イエスさまが十字架で流された血潮によって赦され、また清められるのです。イエスさまの贖いはまことの天に対してただ一度、完全になされたものであり、それによって罪によって分断されていた私たちと神との関係が修復されました。

 そして、死から3日目に、イエスの贖いが完全であったことを証明するように、イエスはよみがえりの初穂として死者の中から復活を遂げられました。イエスの十字架によって、死はもはや人類を支配する力を失いました。今では誰であろうと、信じる者にはキリスト・イエスにある永遠のいのちが無条件で与えられます。

 イザヤ書53章は、イエスさまのことについて書かれています。生身のイエスさまについてイザヤはこう書きました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。(中略)まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(35節)

 イエスさまは、王としてやがて再び来られますが、約2千年前の初臨においては、誰よりも低く、誰よりも卑しくされ、私たちの救いのために来られたのです。私たちと同じ肉を持ち、その肉によって十字架でのみ苦しみを味わわれました。イエスさまのみ苦しみは私たちのためであったのです。

 それゆえ、私たちはイエスさまの十字架をむなしくしません。イエスさまはキリスト、私たちの救い主です。その謙卑な人生はすべての人を救うためにありました。あなたもイエスさまを信じましょう。そのご愛と慰めは私たちに生きる力を与えてくれます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年3月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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