2024年3月27日水曜日

彼女が自殺をやめた理由

 彼女は、快活で明るく一緒に居て楽しい人でした。大学でも友人に恵まれ楽しく青春を謳歌(おうか)していました。ところが彼女にはもう一つ別な顔がありました。希死念慮、これが幼い頃からずっと彼女につきまとっていたのです。時々、ふと友人に死にたいと漏らすことがありました。でも、その度ごとに友人たちは、それは考えすぎだとか、そんなことより人生、もっと楽しんだほうが良いよというアドバイスを返してくれていたそうです。

 そのうちに、自分の訴えが理解されないという苦しみが出てきて、彼女の中でそれが大きくなりました。孤独を感じ、正直なところ、もう死んでしまおうと思ったと言います。しかし、神さまはそんな彼女を心に留めてくださっていました。ある時大学で、彼女はキリスト教の牧師と出会います。彼女は、自分の苦しみを牧師に打ち明けました。

 その牧師は、死にたいという彼女の言い分を頭ごなしに否定することはしなかったそうです。むしろ、はっきりと彼女に今彼女が立っているところを教えてくれました。1丁目の次に2丁目があり、2丁目の次に3丁目があるように、自殺をしたいという思いは、一歩ずつ一歩ずつその実行に向かって進んでいき、やがてはその通りになってしまう

 厳しい言葉ですが、本当にその通りだとその時彼女は分かったそうです。牧師は、ローマ人への手紙623節を引用して、イエス・キリストのことを語りました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」という一文です。

 人には原罪がある。だから死にたい、死ななければならないと思うことはあって当然だ。そう思うのは正しい。あっていると思うよ。しかしね、その死は死であれば誰の死であってもかまわないんだ。仮に、君に3千万円の借金があるとしよう。借りた以上は返さなければならないね。しかし、学生である君に3千万円という大金はない。そうすると、借金のかたに何を持っていかれようが文句は言えない。たとえそれが命であってもだ。しかし、もし私が君の代わりに3千万円を支払ってあげるなら、取り立て屋は満足して帰ってゆくよ。もう君が3千万円を支払う必要はどこにもない。イエス・キリストの十字架の死は、君を救うために、君の代わりに主が支払ってくださったいのちの代価なんだ。イエス・キリストはあなたのために、あなたを救うために十字架で死んでくださったのです!

 この瞬間、彼女は初めてイエス・キリストの十字架が、福音が、分かったと言います。サタンは長年にわたって彼女の罪の報酬として彼女のいのちを求めました。それが希死念慮や自殺企図の思いを抱かせたのです。先ほど紹介したように聖書には「罪から来る報酬は死です」と書かれています。ですから、罪人(つみびと)である彼女が人生の中で見返りの死を求められたとしても何ら不思議ではないのです。けれども、主イエス・キリストを信じた今、賜物として贈り物として、彼女は無償で、「キリスト・イエスにある永遠のいのち」を受けました。彼女は救われました。

 後年、彼女は述懐します。「自殺」には解決はないと。たとえ死んでも、すべてが清算されるわけではありません。死ねばすべて解決するというのは都合のいい考え方で、死んだからと言っても、自分も、問題もそれらが「無」になることは決してないのです。そのことに気付いた時、彼女は本当に自殺をやめました。

 私たちは必ず終わりの日によみがえり、それぞれ自分がなしたことのすべてを神のみ前に言い開きをするようになります。最後の審判と呼ばれているさばきの日があることを聖書は明記しています。それゆえ神を恐れましょう。

 そして、イエス・キリストを救い主としてあなたの心にお迎えください。イエスを信じる者はさばきに会うことはありません。十字架の血潮で私たちの罪は贖(あがな)われたからです。そこには慰めがあり憩いがあります。イエスさまは、自分のいのちを引き換えにするほどまでに、あなたのことを愛しておられます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年3月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年3月20日水曜日

祝福された結婚

  先日、いとこが言いました。「最近の子は結婚もしないし、子どもも生まない」。そういえばそうだなと思いました。私たちはアラ還で、私には孫もいます。でも、自分としてはおばあちゃんの意識はありません。しかしながら、世代の変化を感じることはずっと多くなりました。特に今、結婚に対する若い子の意識が、私が若い時の頃とは大きく変わってきていることに驚いています。

 いつのころからかプラトニックラブ、という言葉をあまり聞かなくなりました。プラトニックラブは、純潔で精神的な恋愛をいいます。およそ10代の頃、私たちはある日突然気になる人ができ、不思議に胸がどきどきし、その人が好きだという抑えきれない心の変化を知るようになります。これは、初恋です。

 私も16歳の時、新卒の国語の先生に恋しました。好きだという気持ちからマフラーを編んだり、小物を作ったり、肖像画を描いたり、その気持ちをたくさん形に表しました。残念なことに、先生には既に決まった人がいて、この恋は実りませんでした。それでも、このときめきを知っただけでももう十分でした。人を好きになるということは、ものすごく大切なことで、素晴らしい体験です。恋することも愛することも、その切なさや喜びを私はプラトニックラブの中で知りました。実に豊かな人生であったと思います。

 ところで、今はプラトニックラブってあるのでしょうか。あまり聞きません。もちろん、純潔で精神的な恋愛は失(う)せてはいないでしょう。けれども、若い世代の者たちの多くは、プラトニックな愛がエロスの愛に変わるのを急いでいるように思われます。私が調べたところでは体の関係がないお付き合いは、好き合っていてもあくまで親しいお友達の関係であって、彼氏彼女と呼べる関係になるには、体の関係が結ばれ一線を越えることがあってのことらしいです。これが今の常識だそうで、あぜんとしました。ちなみに、結婚すると、晴れて「彼女」は「嫁」になり、そこからはもっぱら夫君を支える働きをするように、それはそれで新しい関係になるそうです。俺の「嫁」にならないか、今やこれが「彼女」に対するプロポーズの言葉であるそうです。

 さらに、最近「授かり婚」という言葉が市民権を得ています。おなかに赤ちゃんが宿ったことで結婚に踏み切るケースで、どんどん増えています。こうでもしなければ、結婚に踏み切れない、そういった事情が若い世代にはあるようです。マイノリティも含めて、いろいろな形の結婚がある時代になりました。それでは、聖書は結婚に関してどう書いてあるでしょうか。

 実は、結婚というものは神の奥義なのです。なぜならそれは、かしらなるキリストと花嫁である教会の婚姻を意味するものであるからです。マタイの福音書19章にはこう書かれています。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。(中略)それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(46節)

 ふたりの者は一体となる(新改訳聖書第2版では「ふたりの者が一心同体になる」)、この奥義は重大です。結婚は神が結び合わせてひとりとなるもので、それによって父と母を離れ独立するためのものです。このような深い意味が結婚にはあるのです。ですから、結婚を大切にしましょう。聖書に沿った結婚は大きな祝福です。

 それでは、初めに戻ります。最近の若者たちが結婚しない理由の一つは、結婚しなくても結婚した人と同様、自由に体の関係を持つことができる時代だからです。子を生まないというのも、今の楽しみを優先するなら、子はむしろ無くてもよいと思うのであえて生むことをしないのです。少子化の背景にはこのような事情があるのです。確かに子を持つことには経済的な問題もあると思います。でも、これは命をつなぐ素晴らしい祝福であるのです。

 結婚とは両性の合意のみで成り立つものではなく、神によって「結び合わされる」ものなのです。そして神はそこに、いのちの恵みを置かれました。私たちに、私たちに似た私たち自身の子を下さるのです。それほどまでに祝福されているにもかかわらず、私たちは知識がないゆえに祝福の結婚をゆがんだものにしています。結婚外での体の関係は神の祝福から離れたものであり姦淫に当たります。また、堕胎は神のみこころではありません。結婚を聖(きよ)く保ち、神を恐れてその恵みを受けましょう。悔い改めてイエスさまを信じ、聖書から婚姻を学び、結婚による祝福とその奥義にあずかってまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年3月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年3月14日木曜日

キリスト、その謙卑の生涯

 イエスさまは、神のひとり子であり、王でありました。この方にあってすべてのものが造られ、そのいのちは人の光でした。

 にもかかわらず、イエスさまのご生涯は貧しいものでした。お生まれになった所は宿屋の馬小屋で、馬の飼い葉おけが生まれた彼のベッドでした。その誕生の時からイエスさまは誰よりも貧しく低くあられました。すべての人を獲得するためです。

 また常にキリストの側にいたのは、社会におけるいわば底辺と呼ばれる人々でした。嫌われ者の罪人(ざいにん)、取税人や遊女たちです。イエスさまはこのことを問われると「私はあわれみは好むが、いけにえは好まないとはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイの福音書913節)と語り、罪人(つみびと)の主と呼ばれることを恥ともされませんでした。なぜなのか。それもまたすべての人を救うためであるからです。イエスさまがこの世に来られたのは、すべての人がキリストにある永遠のいのちにあずかり、救われるためであるのです。

 イエスさまの十字架はなぜ許されたのでしょうか。一つとして罪を犯さなかった唯一のお方がなぜ殺されなければならなかったのでしょう。また、なぜイエスさまはそれを避けようとされなかったのでしょう。それは私たちの罪を赦すためです。十字架にはいろいろな意味があります。その最も大きなものは「贖(あがな)い」です。罪の赦しには贖いが必要です。イエスさまが来られる以前は、人々は牛や羊をいけにえとして屠(ほふ)り、罪のための贖いとしてささげていました。しかし、私たちの罪は牛や羊のいけにえの血をもってしても清められるものではなかったのです。

 それゆえ、時至ってイエスさまは世に来られ、ご自分の肉によってすべての人の罪を負い、十字架で血を流して死なれ、贖いを完成されました。すべての罪は、イエスさまが十字架で流された血潮によって赦され、また清められるのです。イエスさまの贖いはまことの天に対してただ一度、完全になされたものであり、それによって罪によって分断されていた私たちと神との関係が修復されました。

 そして、死から3日目に、イエスの贖いが完全であったことを証明するように、イエスはよみがえりの初穂として死者の中から復活を遂げられました。イエスの十字架によって、死はもはや人類を支配する力を失いました。今では誰であろうと、信じる者にはキリスト・イエスにある永遠のいのちが無条件で与えられます。

 イザヤ書53章は、イエスさまのことについて書かれています。生身のイエスさまについてイザヤはこう書きました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。(中略)まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(35節)

 イエスさまは、王としてやがて再び来られますが、約2千年前の初臨においては、誰よりも低く、誰よりも卑しくされ、私たちの救いのために来られたのです。私たちと同じ肉を持ち、その肉によって十字架でのみ苦しみを味わわれました。イエスさまのみ苦しみは私たちのためであったのです。

 それゆえ、私たちはイエスさまの十字架をむなしくしません。イエスさまはキリスト、私たちの救い主です。その謙卑な人生はすべての人を救うためにありました。あなたもイエスさまを信じましょう。そのご愛と慰めは私たちに生きる力を与えてくれます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年3月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年3月7日木曜日

Be Ambitious(大志を抱け)

 今年も、私たちの教会主催の白馬スネルゴイキャンプに参加しました。教会はちょうど40年が終わろうとしていて、スターティングメンバーにとっては同窓会のような楽しいひとときでした。40年の歩みの中で、お互いに年を取ったね、というのが共通の感慨で、頭に白いものが目立つようになっていました。私たちは、青春時代を教会とともに送ったのです。

 人生は、始まりから終わりまで一方通行です。それゆえ、年を取り少しは人生が見えてくると、あれはああすればよかったと分かるようになります。でも、やり直しという持ち時間はもうありません。しかし、これは神に心を向けるための神の知恵かもしれません。ソロモンは聖書の伝道者の書121節で「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という一節を残しています。若いということで手にしているチャンスに気付いてほしいと思います。そして、キリストにあって大志を抱いていただきたいのです。

 キリストにあればどんなことでもできるのだ、と信仰を奮い起こして進んでゆく人生は、本当に豊かな実を結ばせます。私の夫は認定NPO法人礎の石孤児院の働きに携わらせていただいているのですが、最近ザンビアで驚くような出来事がありました。

 ザンビア孤児院ではスラムの子どもたちを援助するための給食と学校教育のビジョンが与えられ活動を進めていました。まず小学校が運営され、さらに中高校生対象の土地と建物をビジョンとして求めていったところ、なんとその必要のすべてが予想外の方法で満たされ、先日ついに落成式を迎えました。荒れ地の中に出現する立派な青い建物は神の栄光の現れです。しかも、これで終わりではなく責任者の姉妹はさらなるビジョンを膨らませ、祈り求めています。私たちの信仰が神から出ているなら、神はそれを成してくださいます。生ける神の手を見るような人生が現代にもあるのです。

 日本にキリスト教が伝えられたのは、フランシスコ・シャビエルをはじめとする宣教師たちの熱い信仰によります。命の危険を冒してまでも、日本の救いのためにやってきた彼らがいたからこそ、今の私たちがあるのです。

 神にある人生は本当に豊かです。神のビジョンをわがビジョンとして生きる人生は神の計画に生きるという人生です。その報いは神ご自身です。宣教師たちは、年を取った責任者の者もいますが、多くの者は若いビジョンに生きる青年たちでした。殉教した者も多く、彼らの地上での年月は総じて短いものでした。しかし、彼らは今、天で永遠のいのちにあずかり殉教者の冠を、その働きの報いを、頂いています。

 あなたの人生にもまた神が用意してくださった計画があります。これから人生の本番を迎える若いあなたに、キリストにある人生の恵みと喜びをお伝えしたいのです。どうかその人生を神と神の計画のためにお用いください。働きには3040年、と長い年月が必要なものがあります。これを担うには持ち時間のある若いあなたの献身が必要なのです。

 ヨハネの福音書627節にはこのように書かれています。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです 

MIKOE NEWSから転載」 2024年3月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/