2023年12月21日木曜日

新生の喜び

 大学進学のために上京した私は、高円寺辺りに差し掛かるといつも中央線の窓から見える、白い十字架を眺めることを楽しみにしていました。恐らくそこは教会なのだろうな、と幼い頃の楽しい教会学校を思い出し、好感を持って眺めていました。

 ところが、人生の不思議で、なんと私はその十字架の教会を訪れるようになったのです。クラスメートに誘われてついて行った教会がまさにその教会であったのです。皆、生き生きとしていて気持ちの良い教会でした。その日、たまたま時間が取れたので、しばらくお話しませんかと牧師に勧められ、屋根裏部屋の一室に案内されました。

 一通り話が済むと、お祈りしましょうということになりました。そうしたら牧師さんが興味深いことを語るのです。「目には見えませんが、ここには神さまが満ちておられます。神さまは私の祈りに応えてくださり、ご自由にあなたに対して働いてくださいます。私は日本語ではないことばで祈りますがよろしいでしょうか。平安を求める祈りです」

 そうして、祈りを受けたのです。するとしばらくして気付きました。体が横に横にと押されるのです。最初牧師さんが力をかけてきたのかと思いました。でも、そうではないようでした。このままいくと畳に体を投げ出してしまいそうで、立て直そうと躍起になったあたりで、急に「先生、お時間です。急いでください」という人の声があり、祈りの途中で牧師は急いで出て行きました。「すみません。ご自由に祈っていてくださって結構ですから」という言葉を残して。

 ひとり残された私は「キリスト教って失礼ね」とちょっと反発しました。しかし、それ以上に今さっき自分の身に起きた力のことを知りたくて、牧師さんが祈った通りに自分で祈ってみることにしました。「神さま、あなたは今ここに満ちていて、ご自由にわざをなしてくださいます。この者に平安が注がれますように

 すると、また力が来て私を押すのです。ついに私は畳に体を投げ出してしまいました。そして、起きようとしたところ、不意に教会学校で習った讃美歌「慈しみ深き」の一節が思い出され、泣きたいほど胸がいっぱいになりました。それは、「なぜお前は負っている重荷を(私の前に)下ろそうとしないのか」、という謙遜で愛に満ちた主イエスの語りかけでした。こうしてその日、私のたましいは主に帰ったのです。

 コリント人への手紙第二にはこのように書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(517節)

 その日の帰り道、東京は珍しい大雪でした。雪に足を取られ何度も転びながら、うれしくてうれしくてたまりませんでした。私は救われたのです。古い私は過ぎ去り、私はニューパーソン(新しい人)になりました。主がそうしてくださったのです。

 これは、ちょうど40年前の実話です。今でも雪を見るたびにその日のことを思い出します。私のすべての罪はイエスさまの血潮によって赦され、雪のように白くなりました。私は、神の子となりました。あなたもまた、イエス・キリストを救い主として信じ、神の愛に戻りましょう。主イエスとの出会いは、あなたの人生を変えるものとなります。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年12月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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