2023年6月3日土曜日

宣教のことばの愚かさを通して

  イエスさまを信じて40年になります。この間、いろいろな人にイエスさまを信じてみないかと勧めました。福音は、長くも短くも語ることができます。個人的な経験では、長い話になると時間を取るので双方緊張が続かず、核心に触れずに終わることもあり、最近では「イエスさまを信じてみない?」と短くストレートに聞くようにしています。神学や理論はそれからでも遅くはありません。後でゆっくり説明すると既に信じているので聖霊の助けがあります。

 そうすると、「うん。信じる」とふたつ返事で応えてくれる人が増えました。ただ、日本人の性質の一つに「曖昧さ」というものがあり、語る者も聞く者もその場において求められるのはア・ウンの呼吸です。何を信じているのかということを理詰めにすることはされにくいように思います。

 以前、T君という青年が、興味深いことを語っていました。彼は青年会の中心人物で教会生活を楽しんでいました。ところがある時、彼は社会人のクリスチャンに問いかけられました。「T君はイエスさまを信じているって言うけれど、イエスさまの何を信じているの?」

 彼は、ちょっと考えて「存在」と口にしました。すると「それじゃあ、天国に行けないよ。イエスさまがT君の罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、3日目に復活し、御子イエスを信じるものはみな永遠のいのちが与えられている、このことを信じるのが信仰なんだよ」。これを聞いてT君は、すっきりした、またはっきりした、と言います。存在を信じるのではなく、救いを信じるのだということが、彼の腑(ふ)に落ちました。主イエスを信じるということは、イエスさまが成し遂げられた「救い」を信じるということなのです。

 この救いに関して、コリント人への手紙第一1章では、次のように書かれています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(18節)。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(21節)。

 すべての人が平等に救いにあずかるにはどうしたらよいか、この問いに神は「宣教のことばの愚かさを通して」それを成そうとされたのです。頭の良い人、お金持ち、など社会的成功者に良い物はすべて移っていくのがこの世の習いです。もし、救いがお金で買うものなら貧乏人は買えません。知恵によるものなら愚かな者たちを取りこぼしてしまいます。すべての人を等しく救いにあずからせるために、神は宣教のことばの愚かさを通して救いを明らかにされたのです。これが、時至ってなされた神の証しです。ですから、パウロは能力も経済力も並外れたものを得ているエリートでしたが、それらをちりあくたと言い、それを捨て、われわれと同様信仰のレースを走りました。

 十字架の救い、十字架のことばは、世には愚かに見えるようです。ある人は私に、処女が身ごもるというだけでもう私は聖書は読めないわ、と笑いながら言ってきました。処女降誕は教理においても非常に重要なことなのに、それを信じられない人が今日(こんにち)でも大勢いるのです。確かに十字架のことばは滅びに至る人々にとっては愚かな言葉です。しかし、救いを受ける私たちにとって、それは神の力です。求められるのは信仰ただそれだけであると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

0 件のコメント:

コメントを投稿