2023年6月10日土曜日

『ヨブ記』に思うこと

  旧約聖書『ヨブ記』のヨブを知る人は多いでしょう。彼は、苦難のしもべとして広く世に知られています。ヨブは神を恐れる人物で、非の打ちどころがないと神が称賛するほどの信仰者でした。7人の息子と3人の娘に恵まれ、多くの財産を持ち、社会的な信用もありました。ところがサタンはそこに目を付け、財産を失い子を失うなら、さすがのヨブも神をのろうでしょうと神に進言しました。神はサタンにそれを許され、ヨブは1日にして全てを失います。しかしヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言い、このようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼすこともしませんでした。

 サタンはなおも食い下がり、今度はヨブの命を的にして、ヨブの骨と肉を打ってください、そうすればあなたをのろうに違いありませんと進言します。神はそれを許され、サタンはヨブの足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打ちました。それを見た彼の妻は「なお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と言います。ヨブは「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言い、ここでも罪を犯すようなことは口にしませんでした。 

 しかし、その苦しみは半端なものではなかったのです。ヨブの3人の友がヨブを慰めようと訪ねてきました。ヨブだと見分けがつかないその姿に、彼らは77夜、一言もヨブに話しかけませんでした。その痛みがあまりにひどいのを見たからです。そしてその後(のち)、ついにヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろいました。ここから長いヨブの試練が始まります。

 ヨブの友人は、それぞれ、エリファズ、ビルダテ、ツォファルと言います。それぞれ3度(ツォファルは3度目はキャンセル)ヨブと議論をしました。端的に言えば、彼ら3人は、ヨブがこのような苦しみにあるのはヨブに非があるのだ、という立場を取っています。ヨブがいくら自分の正当性を主張しても、彼らは聞く耳を持ちません。彼らは、神は正しい方であるので、理由もなく人が苦しみに遭うことを許されないという立場に立っているので、きっとヨブは苦難に値するような悪いことをしたに違いない、という結論を初めから持っているのです。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ162節)とヨブが嘆いたのも無理のないことでしょう。彼らがしたことは、信仰の名を用いた暴力だと私は思います。

 信仰には段階があります。大別すると三つに分けられます。最初の段階とは、試練前にヨブが持っていた信仰で、主との蜜月関係にあり、呼べば応えられ、疑いを抱くことさえなく、すくすく育って行きます。この時期は、まだ信仰による苦難はなく、神の恵みの下にあり、真綿にくるまれるように養われています。

 次の段階は、一歩進んで、信仰の試練が許されるという段階に入ります。蜜月時代とは打って変わって、神がすっかり顔を隠されたように思える時が来ます。しかし、それによって信仰が鍛え上げられます。見ずに信じるという信仰が求められ、悪いと思えることにあっても、その中に神を認めていくことができるよう訓練がなされます。

 そして最後の3番目は、まさにヨブが体験して得た神との関係です。ヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(425節)と言いました。ヨブにこのように言わしめた信仰は、信仰におけるある不動の境地を示しています。そして、これこそヨブ記が書かれた理由です。

 信仰の段階が違うと、時に信仰が他人の信仰を傷つけるようなことが起こります。ヨブの友人たちの信仰では、試練にあるヨブの苦難は理解できません。事実彼らは、ヨブの困難はヨブが罪を犯した結果起こったものだと捉えてヨブを苦しめています。しかしヨブはあくまで無実を主張し、神は、ついにご自身をヨブの前に現されます(40章)。ヨブにとって、友人たちの信仰はいわれない非難でした。信仰の暴力だと言っても過言ではないでしょう。

 ヨブが病にあるのは、ヨブが苦難に値する悪いことをしたからに違いない、これが3人の友人たちの信仰の限界でした。3人にはそうとしか考えられませんでした。しかし、実際はヨブは、いわば無罪であり、その試練は神の特別な手でした。ですから、ヨブに非があるとした彼ら3名は、後に神によってさばかれ、ヨブにとりなしてもらうようになりました。興味深いことに、この試練以降、神はヨブを「わたしのしもべヨブ」と語るようになりました。そればかりか4212節では、「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」と書かれています。ヨブは失ったものの2倍を受けました。

 全てにおいて神は、正しいのです。ヨブは試練を受けることによってこのことを知りました。そして、今まで以上に神の前にへりくだったのです。私たちもまた、ヨブの信仰と謙遜を学びましょう。神を恐れ、神を義とする信仰は、さらに優れた神の栄光を現すものとなるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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