2023年3月17日金曜日

ねたみ 

 罪にはいろいろありますが、その中でも今回は「ねたみ」の罪について取り上げてみたいと思います。ねたみは罪の中でも拮抗するにとても手ごわい罪です。私たちは、人との比較に生きやすく、それが高じて実にねたみやすい性質を持っています。

 イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのもねたみです。マルコの福音書1510節に「ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである」とさりげなく書かれた一節があります。その通りで、祭司長、律法学者たちは、群衆が自分たちを離れ、こぞってイエスのほうに行こうとするのを見てねたみに駆られ、イエスを憎み、恨み、正直なところ殺してしまいたいという強い思いを抱いていたのです。ねたみは殺人の実まで結ばせる恐ろしい罪です。

 振り返ってみると、創世記の昔からねたみも殺人もありました。カインとアベルはエバが産んだ兄弟で、兄のカインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼うものでした。ささげものをする時になると、神は最良のものをそれも自分で持って来たアベルのささげものに目を留められました。でも、カインとそのささげものには目も留められませんでした。カインはこれにひどく怒り、顔を伏せました。神は、罪を治めるべきである、とカインに語られました。しかし、カインは弟アベルを野に誘い出し、襲いかかって殺してしまいます(創世記4章参照)。弟が称賛を受け、自分が無視されたことが我慢ならなかったのです。正しいのは弟で、弟によって自分が間違っていることを見せつけられたとき、死に至らせるねたみを心に抱きました。

 ステパノもまた、ねたみから殺された者のひとりです。聖霊に満たされ正しいことを語りましたが、それによって彼がその時代の者を罪に定めると、人々ははらわたが煮え返る思いでステパノに向かって歯ぎしりし、ついには彼に殺到し、石で打ち殺してしまいました(使徒の働き7章参照)。

 正しい者が正しいが故に憎まれ殺される、こんな矛盾が代々にわたって続いているのです。神がこのことを許されているのは、そこにも神による報いがあるからです。主イエスは、殺されましたが神の力によって3日目に復活し、アベルの訴えは神に届いています。ステパノに至っては殉教者の初穂となりました。ですから神はあえて助けの手を入れることなく、彼らが死ぬことを許されたのです。

 私もまた自分のうちに彼らと同じようなねたみの罪があることを自覚しています。すべて自分にはないものを他の人が持っているなら、それを喜ぶべきでしょう。しかし、喜びではなくねたみに心が捕らわれるのは、そこに罪があり、サタンが働いているからに他なりません。私はその人をねたむあまりに、その人を通してなされる神の働きを止めようとしたのです。はっとしてその瞬間、我に返ったのは神の憐れみです。この体験から私は、ねたみはどこにでもあり、場合によっては殺しにさえ通じる実に恐ろしい罪だと改めて知るに至ったのです。

 私たちは神を恐れましょう。それによって、ねたみから身を引き、神の心をわが心とし、神の思いをわが思いとしていくことができるよう祈りましょう。なぜなら、神さまに愛されていることを体験している者には、ねたみは効き目がないからです。聖書に書かれているように「全き愛は恐れを締め出」すのです(ヨハネの手紙第一418節)。まことの愛には恐れがありません。この愛こそ、私たちへの報いであり取り分です。イエス・キリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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