2016年4月25日月曜日

待たされる
 最近娘とともによく祈ります。年ごろですから結婚について祈ることも多いです。娘の祈りを聞いて、ふと私の心は30年前の自分にタイムスリップしました。夢や憧れを抱いていた自分を思い起こし、娘と一緒に、それはもう熱心に祈っています。
 私たちの同労者のNさんも、心血を注いで結婚のために祈っていた人でした。彼の部屋に入ると、壁から「結婚、結婚」という声が聞こえる、と言った人がいました。壁に染み入るまで祈りがささげられていたのです。
 Nさんは、結婚の祈りを祈り切りました。しかし、何も起こりませんでした。待たされ、試されて、人々が忘れてもなお祈りを続け、ついに約束の奥さんがやってきました。成就には時間がかかりました。
 詩篇105篇19節に「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」ということばがあります。彼とはヨセフです。ヨセフは自分が親兄弟より偉大な者となるという夢を見、固くそれを握っていました。しかし、起こってくることは真逆でした。兄たちによって奴隷に売られ、ぬれぎぬを着せられ囚人となり、頼みの綱には忘れられ、状況は悪くなる一方でした。
 しかし、約束の成就の時が来ます。彼は一日にして囚人からエジプトの大臣となり、飢饉の中、全親族を呼び寄せ養いました。ヨセフもまた、待たされた人、と言えるでしょう。
 約束が与えられると、成就の時まで、試され、試され、これでもか、と言わんばかりに待たされることがあります。しかし、忍耐を持って最後まで信仰を持ち続けるなら、必ずその日はやってきます。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章4節) (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月24日号(第881号)より転載—

2016年4月15日金曜日

 
世の中には、理不尽なことが山とある、人生の諸先輩の方々が、口をそろえてそう言われます。聖書にもいろいろなケースがあります

が、理不尽ということになれば、ヨブ記のヨブの右に出るものはいないでしょう。
 ヨブは非の打ちどころのない義人でした。にもかかわらず、試練が許されました。一日のうちにヨブは財産の全てと全ての子どもを失

いました。でも、ヨブは愚痴をこぼさず神をあがめました。
 おもしろくないサタンは、いくらヨブでも命を的にしたらきっと神を呪うに違いありませんと、狡猾に神に語り、ヨブの足の裏から頭の頂き

まで、悪性の腫物で打ちました。その苦しみは非常なもので、友人がヨブと見分けがつかないほどのものでした。それでもヨブは罪を犯

すようなことを口にしませんでした。
 3章以降になると、ヨブを見舞いに来た3名の友人とヨブとのやりとりが長く記されています。
 友人たちは、ヨブは罪を犯したのだからこんな病が許されるのだ、と決めてかかっています。無理もないでしょう。目で見えるところでは

、確かにヨブは、神にさばかれ、罪を罰せられたかのような状態にあったからです。
 しかし、38章になると神は沈黙を破ってご自身を明らかにされます。そして神は、ヨブが失ったものの2倍を与えられ、以前にましてヨ

ブを祝福されました。理不尽と思える事が許されたとしても、神の正義は変わりませんでした。神はヨブの正しさを覚えておられ、その

正しさに報われました。
 私たちの地上の歩みにはさまざまな事が許されます。一見、理不尽だと思えたとしても、神は義なるお方です。必ず、正しく報いてく

ださいます。それ故つぶやかず、感謝をもって主に従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月17日号(第880号)より転載—

2016年4月12日火曜日

「不幸」に思う
 ソロモンの箴言に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(1517節)と書かれています。
 小学生のころ、牧師さんの息子がいました。彼はハンバーグが嫌いだと言っていました。肉を節約し、つなぎのパン粉を大量に入れるので、パンを食べている味しかしなかったからです。彼は「パンバーグ」と呼んでいました。
 私はといえば、幼少のころからあれこれ珍しい物を食べさせてもらい、本当に父には感謝しています。でも、当時は牧師一家が囲むパンバーグに憧れました。そこには何か、特別な祝福があるように感じました。
 皆さんは、今不幸ですか。それとも幸いですか。不幸にはそれなりの理由があります。金銭もまた、その一つです。お金さえあればできたのに、お金が無いばかりにできなかった、と悔しさをにじませる場面は人生に少なくありません。
 また、病気が不幸だと考える人も多いです。世の中には不治の病があります。これもまたつらいものです。そして、孤独です。楽しさやつらさを分かち合える人を持たないこともまた不幸でしょう。
 でも、お金の無いことや、不治の病であること、孤独であることは、必ずしも不幸とは言えません。神さまは愛なるお方だから、どんなつらいことがあっても耐え切れないような試練は置かれません。必ず解決を用意し、脱出の道を備えてくださっています。
 では、本当の不幸とは何でしょう。それは、「神を知らないこと」です。神を知っているなら、共に歩んでくださる方をご存じなら、どのような状況にあろうと、そこに愛があり、いやしがあり、安らぎがあり、解決があります。イエスさまを信じて、勝利を受けましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月10日号(第879号)より転載—

2016年4月4日月曜日

ギデオン
 士師記に、ギデオンという神の器が登場します。イスラエルを虐げていたミデアン人からイスラエルを解放するために立てられました。
 しかし、その戦いに関して神は興味深いことを語られました。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが私に向って誇るといけないから。(中略)恐れ、おののく者はみな帰りなさい」
 すると、民のうちから2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。対するミデアン人の軍勢は、13万50
00人です。圧倒的に少数です。ところがなおも神は「民はまだ多すぎる」と語り、今度は「水のところに下って行け。そこで試そう」とおっしゃいました。
 水のところに来ると、口に手を当てて水をなめた者が300人で、残りの民は皆、膝をついて水を飲みました。彼らは家へ帰され、神は残るこの300
人でミデアン人を渡すと語られました。
 ギデオンは、300人を三つに分け、角笛とからつぼを持たせ、つぼの中にたいまつを入れさせました。そして角笛を吹き鳴らし、つぼを打ち壊し叫びました。「主の剣。ギデオンの剣だ」。その間に主は同士討ちが起こるようにされたので、戦いはイスラエルが勝利しました。
 300人が13万5000人に打ち勝ったのです。これが神の戦いです。神はご自身の栄光を現されました。
 神さまは、どんな事でもおできになります。あなたが祈る時、あなたの祈りを聞き届け、不可能な状況には奇跡さえも起こります。13万5000人を300人で倒された神の勝利は、あなたの内にも起こるのです。
 自分の手の内にあるものを見るのではなく、神の語られることばに目を留めていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月3日号(第878号)より転載—

2016年3月28日月曜日

エステル
 ペルシャの王アハシュエロス王が大きな宴会を催した時、王は王妃の美しさを見せようとワシュティを召しました。しかし、彼女が拒んだので、王は怒り、彼女を王妃の位から退けました。
 王はワシュティに代わる王妃を国中に求め、ユダヤ人モルデカイの養女エステルも召し入れられました。王はエステルを愛し、ついにワシュティに代わる王妃としました。
 王にはハマンという寵臣がいました。ハマンはモルデカイを憎み、ユダヤ人を根絶しようとたくらんで、王の許可を得ました。絶体絶命の危機に陥り、モルデカイはエステルに王へのとりなしを求めます。
 状況を聞いたエステルは「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル記4章16節)と言いました。
 法令にそむいても、というのは、誰でも王に召されないで内庭に入り、王のところに行くものは死刑に処せられるという法令があったのです。
 断食の後エステルは王妃の衣装を着て内庭に立ちました。王はエステルを受け入れてくれました。エステルは、自分の出自を明らかにし、民族が滅びることのないよう嘆願しました。王はこれを聞き入れ、ハマンが設けたユダヤ人をかすめ奪う日は、一転し、ユダヤ人がその敵に復讐する日となりました。これを、プリムの日と呼びます。
 美しさもさることながら、「私は死ななければならないのでしたら、死にます」と、語った婦人、これがエステルです。彼女の信仰には「覚悟」がありました。命をも主に委ねて従った時、主もまた彼女に応えてくださいました。私たちもまたエステルの信仰にならいましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月27日号(第877号)より転載—

2016年3月21日月曜日

ペテロ
 ペテロは、キリストの12弟子の筆頭です。イエスさまが祭司長、律法学者に引き渡されることを語った時に、「あなたのためには命も捨てます」と語った人物です。しかし、現実は厳しく、彼は命を捨てるどころか三度イエスを知らないと否んでしまいます。彼は号泣しました。
 しかし、イエスさまはペテロを見捨てず立ち直らせます。そして、イエスはペテロに言いました。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(ヨハネの福音書2118節)
 聖書はこれを「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった」(19節)と書いています。
 伝承によると、ぺテロは周りの人々の強い要請を受け、迫害を避け、ローマから離れました。そして、道中アッピア街道でイエスさまと出会うのです。
 主よ、どこに行かれるのですかとひれ伏してペテロが問うたところ、イエスさまは、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と語られたのです。ペテロは直ちに元来た道を引き返し、ローマで捕らえられ逆さ十字架で殉教しました。
 若いうちはやりたい放題に生きていけます。しかし、主に出会い献身する中で、やがては負うべき自分の十字架があると知るようになります。この十字架を担う者は多くの実を結びます。かりそめのこの世の命ではなく、永遠のいのちこそ目を向けるべきものではないでしょうか。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月20日号(第876号)より転載—

2016年3月9日水曜日

悔い改め
 神さまが何となく遠くなったと感じる時、有効な解決方法があります。それは「悔い改める」ことです。私たちはイエスさまの救いを受けた時に、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう一切の罪を赦していただきました。神さまは私たちを罪のない者として見てくださり、子として愛を注いでくださっています。
 しかし、神さまは愛なる方ですが、同時に義なるお方です。罪があると神さまとの関係は断絶してしまいます。それで日々の悔い改めの祈りは重要なのです。
 以前所属していた教会で、ある青年が興味深いことを語りました。確かに自分は祈っているが、いまひとつ力に欠ける。そこである日、朝から腰を据えて、自分の罪を一つずつ告白した。長くても1時間くらいで終わると思っていたが、次々と悔い改めのことばが紡がれて、あっという間に正午を越えた。祈りを終えると神さまとの距離が取り除かれ恵まれたというのです。
 悔い改めるなら赦される、これは神さまの約束であると同時に原則です。どんな罪であっても、主の前に告白して立ち返るなら全て赦されます。
 韓国の祈祷院にチョー・ヨンギ牧師専用の祈りの穴があったそうです。壁には落書きがありますが、その中で、韓国語で、悔い改め、悔い改めと、ひとしお大きく書かれた文字があるそうです。悔い改めがいかに大きな力であるかチョー牧師は知っておられるのです。
 私もまた、これを聞いて日を定め、腰を据えて悔い改めの祈りをしました。声に出してはっきりした言葉で告白しました。すると次々と悔い改めの言葉が出てくるのです。全てを告白し終わったら喜びでいっぱいになりました。皆さんもぜひ、この悔い改めの祝福をお受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月13日号(第875号)より転載—